第39話 花梨と約束
花梨は言った。
「毬萌先輩の事は、好きですか」
彼女らしくシンプルな質問は、俺にとって人生のページをいくら捲っても類を見ない程の難問であり、即答などできようはずもなかった。
咄嗟に、先ほどの論法を応用できないかとも思った。
嫌いな相手の判別法である。
しかし、そんないやしい考えはすぐに無意味だと理解する。
「……それは、人間として尊敬できるか、と言う意味、じゃないよな」
無為な事だと分かっていても口に出す。
なんと横着な男だろうか。
「もちろん違います!」
彼女は笑顔で否定する。
そして続ける。
「男女の、恋愛対象としての好き、ですよ。せーんぱい?」
考えたことがなかった問題である。
俺の人生、気付いた時には毬萌が横に居たし、気付いた時にはもうそれが当たり前のような存在で、俺にとって彼女は異性とか、愛とか恋とか、そういう
いや、違う。
事ここに至って、まだ逃げようとするのか、桐島公平。
ほんの数日、たったそれだけの時間。
毬萌を失った俺は、どうだ。
頭の中は、あいつの事ばかり考えていたではないか。
そうとも、逃げていた。
俺は、毬萌を一人の女子として見る事から、逃げていたのだ。
何故か。
「あたし、初めてお二人と話した時から、ずーっと思ってたんですよ?」
「あー、お二人は、お互いがすっごく信頼し合っている、深い仲なんだなぁって」
黙っている俺の代わりに、花梨が語る。
いい加減に認めなければならないだろう。
さもなければ、これは花梨に対する重大な背徳行為だ。
彼女は今、自分の好きな男に「本当に好きな人は誰か」と問うている。
それがどれほどの苦行であるか。
どれほど心を締め付けなければならないか。
その程度の想像力は俺にだってある。
どんなに不格好でも良い。
誠実な彼女に答えなければ。
……応えなければ。
「分からねぇ。分からねぇんだ。マジで情けねぇけど……」
ようやく口を開いたかと思えば、意気地なしの化身か、俺よ。
「公平先輩? 分からないって事は、つまり答えがノーではない、と言う事なんですよ?」
そんな俺を見捨てずに、寄り添ってくれる花梨。
「でも、俺ぁ、ずっと一緒に居ただけで。それが好きって事にゃならんだろう?」
「しっかりして下さい、先輩! 公平な視野で自分を見つめて下さい! 少なくとも、毬萌先輩の事、誰よりも大切に思ってますよね!?」
「………………っ!」
ぐうの音も出なかった。
それは、俺ですら見つけていない、真実の尻尾を花梨が掴んだからだろうか。
「あたしから吹っ掛けてあれなんですけど、もう好きとか恋とか、そういうのはいいんです! 誰よりも大切な人のために、今どうしたいか、それを教えて下さい!!」
「そりゃあ、もちろん!」
涙を拭いてやりたい。
安心させてやりたい。
俺がいるから大丈夫だって言ってやりたい。
「だったら、行ってあげましょう? 毬萌先輩のところに!」
「いや、しかし、ここを空ける訳にゃ!」
「大丈夫ですよ! ……ほら、足音が聞こえてきました」
ドドドドと言う地響きが、耳慣れた地鳴りの音が、放送室の前で止まる。
「ゔぁぁぁう! おまだぜじばじだ!! 失敬! ここは任せて下さい、先輩!!」
「鬼瓦くん!? 運搬班はどうした!?」
「全部終わらせてきました!!」
「あ、あの量をか!?」
「ゔぁい!!」
花梨は、してやったりとにんまりした後、歯を見せる。
「これでもう、先輩の言い訳は通用しませんよー? ふふっ。それでもまだ煮え切らないのなら、あの約束を使っちゃいます! この前、お弁当食べてもらった時、先輩言いましたよね?」
「……言ったな。……なんでも、言う事を聞くって」
「あれ、今使います! 毬萌先輩のところへさっさと行っちゃってください! だって、先輩は! あたしの好きな先輩は、絶対に毬萌先輩の事を放っておいたりしないので!!」
「……分かった。ありがとう、花梨」
俺は、ジャージの上着を掴む。
万が一のために、連絡用の携帯電話も一台拝借。
飛び出す準備をしている俺に、花梨が言う。
「あっ、先輩! あたし、負けませんからね? 毬萌先輩にも! ちゃーんと、実力で公平先輩の事、振り向かせて見せますから!」
「だから、全部元通りになったら、あたしの事もしっかり見て下さいね!?」
「これも、約束ですよ?」
——約束。
なんと重たい言葉だろうか。
それでも俺は頷く。
「おう!!」
ここで首を振るような俺なら、この先誰に対してだって、ちゃんと向き合えないと思うから。
「悪ぃな、ここは任せる、二人とも!!」
「あたし達に任せといてください!!」
「桐島先輩、ご武運を!!」
俺は放たれた弾丸のように放送室を飛び出した。
今日ばかりは、廊下を走る事も辞さない。
放送室と生徒会室は本来、廊下で一直線に繋がっている。
が、オリエンテーリングのために、その廊下は途中にあるトイレのところで分断されており、中間地点は機材置き場として利用されている。
そのため、遠回りだが、中庭を通る迂回ルートで生徒会室を目指す。
それでも全力で走れば三分も掛からない。
かつて毬萌が言っていた。
「問題って言うのはねー、いつも急いでいる時に起こるって思いがちだけどさっ、ホントは、急いでいる時の問題が強く印象に残ってるだけで、常に一定の確率でムクムクと生えてくるのだよ! むふーっ」
多分、それは正しいのだろう。
俺には確かめる術がないけども、お前の言う事だからな。
ただ、その一定の確率ってヤツがな。
なにも、このタイミングで顔を出さなくったっていいじゃねぇか?
先ほどは慌てる余り気付けなかったのだろう。
生徒会室へはあと10メートルしかないと言うのに。
機材置き場の、ポールや柵が積み重なった山が、荷崩れを起こしている。
しかも、完全に崩れ切ってはおらず、少しの衝撃で第二波が起きても不思議ではない現状。
「くそっ」
一定の確率とやらを恨むも、捨て置くことはできない。
隣のトイレを利用に来た生徒が、万が一怪我でもしたらどうする。
片付けるしかない。
「いてぇ! ったく、誰だ、釘なんか刺さった板まで捨てたヤツは!」
苛立っても仕方がないことも分かっているのだが、焦燥感が増していく。
そんな折、男子トイレから軽快な口笛が聞こえてきた。
「どうしたんだよ、桐島。血相変えて」
「ヒュー! 分かるぜぇ、お腹の大きな奥さん、もう生まれるんだろ? ヒュー!」
「茂木! 高橋!」
不埒な思考が頭をよぎる。
こんな身勝手が許されるだろうか。
彼らは一般生徒。
レクリエーションを楽しむ側である。
だが、しかし——。
「なんだか分からないけど、こいつを片付ければ良いのか?」
「いや、でもお前ら」
「ヒュー! どうもこの辺は水質汚染が進んでるみたいだぜぇー。ヒュー! 公平ちゃん、水臭いってな! ヒュー!!」
「なんか急ぎの用があるんだろ? ここは俺らが片しておくから、行けよ」
「ヒュー! 決意した顔の色男を見送るのも、また色男の務めだぜ? ヒュー!」
「すまん!」
今度二人には、とびっきりのご馳走でも奢らせてもらおう。
最高のナポリタンとハンバーガーを。
「よし、そっち持ってくれ、高橋」
「ヒュー! 冗談キツイぜ、茂木ちゃんよぉー! 俺がバタフライアブスで鍛えてるのは、腹筋だけだぜ? ヒュー!」
「マジで助かる! 怪我しねぇようにな!?」
そして生徒会室の扉を、決意の扉を開いた。
「毬萌っ!!」
俺は叫ぶように、彼女の名を——。
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