第2話 葉月マコト自己紹介(長文注意)

 1977年生まれ、一人っ子。祖父母は20年以上前に他界、親戚も皆遠方な為、疎遠。当時、会社員(職人)の父と、パートで働く母との3人暮らし。

 県立の進学高校を卒業して、私立大学で機械工学を学んだ。そして卒業後、就職超氷河期の2000年、難航した就職活動の末、東証一部上場企業に技術者として就職。約7年間技術者として、新規事業に関する開発業務に携わった。

 その後、家庭の事情などで地元に戻り、再び技術者として別の東証一部上場企業に転職、その企業で働いた。途中、自らの意志で働きながら社会人大学院で学び、2017年春に修了した。

 一見華やかな人生に見えるかもしれないが、挫折と苦悩しかなかった。


 高校時代は黒歴史である。

 私は駅もない、県の外れの田舎町に育った。小学生時代は勉強とは全く無縁の、毎日近所の川で、鮒などの魚釣りをしたり、友達の家でファミコンをしたり。

 学校で勉強と言えば、宿題を忘れずにやるくらいの、普通の幼少期を過ごした。

 中学1年生になってからも生活は特に変わらなかったが、中学1年生最初の中間テストで成績上位(1位)を取った(ちなみに母校の中学校は、当時の全国学力テストで県ワースト2位のレベル)。

 学年で自分が何位であると、はっきりと順位として出るのは中学生になってからであるので、自分自身驚いた記憶を覚えている。

 周りからは陰で勉強していたのではないかなど、陰口をたたかれたりもしたが、特別なことはしていなかった。普通に先生の授業を聞き、ノートを取り、宿題をやり、週に一度、習字の稽古と算数の塾に行った。部活も毎日やっていた。当然空いている日は遊びもした。それだけだった。その後も成績上位は不思議と維持された。

 周りの大人からは「将来が楽しみだ」とか「高校は県下トップクラスの進学校に」とか「将来は〇〇大学だ!」などと言われていた。

 自分では自覚がなかったが、当時の私はそのような先生たち大人の言葉を聞いて調子に乗っていたのだろう。いや、間違いなく調子に乗っていた。今思えば、友人に対して生意気な態度を取っていた気もする。

 そして言われるがまま、全くと言っていい程、自分の意思は全く持たず(というか、無く)、その県立進学校を受験し、合格したのだった。

 通学は自転車10㎞で最寄り駅へ行き、そこから電車に乗るという、片道2時間半かかった。今では絶対にできないし、想像する事すら難しい。

 高校に入ってからは、毎日が辛く苦しかった。私の存在は、あまりにも小さい小さい井戸の蛙であった事にすぐに気づいた。大勢の「天才」という人たちを見ることになった。

 自分にはどう頑張っても無理だった。私が言う「天才」とは、例えば教科書をパラパラと見るだけで内容は理解、アンダーラインなど皆無である。そう言う人は運動も遊びも超一流だった。天は一人に一物も二物も三物も…才能を与えるものなのだ、と不公平さ、理不尽さを感じる毎日だった。

 私はなぜ才能を与えられなかったのか、という思いすら抱いていた。そんな私は「秀才」にすらなれなかった。私が言う「秀才」とは、才能で天才に劣っている分、努力をし、頑張っていく能力を持った人。

 正直、どう頑張っても、学生生活のすべてを勉強に捧げても、敵いっこない、それくらい愕然としていた。そういうセリフは本当にすべてを捧げてから言え、と言われそうだが、私は当時から強くなかったし、今も強くない。毎日が放心状態に近い、ショックというか、虚ろに過ごしていた。

 他にもいろいろな要因があったが、私は間違いなく高校で一度、大きな「挫折」を味わった。

 当時はまだそれほど精神疾患が一般的に周知されていなかった事や、当時高校一年生の必修科目「現代社会」の授業で「精神分裂病」として精神疾患を蔑視するような時代だったので、自分が心の病であるという認識はなかった。

 今思えば、精神不調であったと思う。嘔吐や腹痛は度々あった記憶がある。でも、通学や部活で疲れていたせいか、睡眠だけはしっかりとれていた。

 とにかく毎日登校し、転校するという発想もなく、苦痛な3年間を唯々、ひたすら過ごした。

 当時は、自分に心の病に関する知識がなかった事、サボるという考えも若かりし頃の自分にはなかった事、親の期待を裏切りたくないなど、ただ私に期待してくれた人に申し訳ないという思いで、毎日、通学した。

 成績表は、当然誰にも見せられる状態のものではなかった。赤点で再テスト、何とか単位をもらう。常習だった。出席日数と追試で卒業できたようなものだ。

 高校時代は、父の病気が目に見えて悪くなり、父が退職した時期でもあった。父の病気は、治ることのない、進行性の難病だ。

 自分の能力のなさに加え、父が病気で学費もままならない恐怖が襲った。大学受験は、当時3流私立大学(母校)と地方国立大学しか合格しなかった。大学入試センター試験で失敗した私は、自力で合格できるであろう偏差値の低い私立大学か、アシ切りされなかった地方国立大学に合格するしかなかった。

 結果、私立大学も地方国立大学も合格した。当初は地方国立大学に進学するつもりであったが、学費は安いものの、一人暮らしをしないと無理なため金銭的負担が大きいと諦め、学費は高いが成績次第では学費免除の特待生が望める私大に行くことにした。

 案の定、大学入学の直前に父は動けなくなり、53歳で退職した。これからは絶対に学費免除の特待生を目指すという決意のもと、通学に片道3時間かけて4年間、休まず毎日通った。

 結果、大学1年から卒業まで成績上位を死守し、特待生として学費を免除していただいた。部活やサークル活動(特に鳥人間コンテストのある航空研究会)に憧れはあったが、活動できなかったのは仕方のない事だった。

 毎日、朝から晩まで一番前の席で授業を受けて、きっちりノートを取った。ノートが評判になり、友人にコピーさせる代わりに、友人が部活やサークルで先輩から入手したという「過去問」をコピーさせてもらった。

 部活動のようなネットワークがなかった私は、そういった卑怯な手も使った。過去問が全く同じで出題されることは無いが、教授の出題傾向など参考になった。今思えば、青春というものは感じなかったが、振り返れば有意義な大学生生活だった。

 恩師にも大変お世話になった。今でも連絡を取り合う仲の友人もできた。理系工学部となると、4年間では学び足りないため、大学院に残りたかった(母校大学院受験はしており、合格はしてした)が、就職超氷河期2000年に奇跡的に1社(東証一部上場企業)内定をいただいたので、迷わず就職することにした。

 会社の事業内容はもとより(そもそも全く事業内容に全く興味のない会社は受験しなかったが)、「東証一部上場」の方が私のこだわりだった。見栄とかではなく、そういった大きな会社は強固たる基盤があり、その社会的責任からも、あまり社員に対して変な事をしないと思ったからだ。

 例えば、サービス残業やパワハラ、セクハラなど、社会的問題になることなど、CSRがきちんと確立されていると思った。そして、母校で鍛えられた4年間を胸に、社会に出ることが楽しみだった。

 自動車関連メーカーに就職し、当時最先端であった新規事業部に配属された。非常にやりがいのある仕事だった。ただ、入社してすぐに3流大学であることを棚に上げられて辛い思いをしたのは正直なところだ。

「なんであの有名高校からそんな大学?どれだけ高校時代遊べばそうなっちゃう

 の?」

「ウチの会社もそんな大学から採用するようになったのか…」

など。そういう人達も、悪気があって言っている訳ではないだろう。嫌味を言っているようには聞こえなかった。単純に、「そう」思ったのだろう。心の声が口から洩れてしまったようであった。

 しかしまあ、そんな事を言われても自分にはどうする事もできないし今更言われても仕方がないので、私はヘラヘラと笑ってかわしていた。数年経って、何とかチャンスにも恵まれ、特許も数件出願し、ほんのり充実した日々を過ごしていたが、不景気のあおりを受けて、会社の方針で採算の取れなかった新規事業部は、設備や特許、ノウハウのすべてを中国の企業に売却し、その事業から撤退した。

 その時、私は29歳。この会社を辞める決意をした。新規事業部以外の取扱製品は、主に自動車油圧関係の部品であった。当時からバイワイヤ技術が将来の主流になると言われていたため、他の部署へ異動をしても、新しい技術を生み出す話は無かったため、自ら退職を希望した。

 次の会社が決まり、早く入社してほしいと打診されていたが、新規事業部の中国移管が完了する最後の最後まで、私は残って仕事をした。有給休暇も1ヶ月くらい余っていたが、1日たりとも消化しなかった。もちろん金銭処理もしなかった。出社最終日まで休む事はなかった。

 会社を辞める人間を快く思う社内の人がいる訳もないが、迷惑をかけたくなかったし、自分も最後まできちんと務めた上で辞めようと思ったからだ。

 転職を機に地元に戻ることにした。父の具合も芳しくなかった。実家に帰って折り込み広告を見ていたら、たまたま近所の東証一部上場企業が募集をしていた。

 当時、2000年の就職超氷河期で求人を控えていた企業が、中堅30代技術者の人手不足に陥っていた。そして、履歴書、職務経歴書、面接だけで、私はその企業に入社することができた。

 産業用の大型機械の設計をする仕事をすることになった。転職してすぐわかったことだが、この会社は、前職の自動車関連メーカーよりも根強い、強大な「学閥」があった。

 当然、あの進学高校からあの私大、という事は履歴書で周囲に知れ渡っており、入社時から厳しい試練と厳しい目線が待ち受けていた。しかし、中途入社というのは即戦力として採用されたのだから、そう言った厳しい目は仕方ないと思い、学歴ではなく、仕事で信用を得られるようになろうと考えるしかなかった。

 しかし、転職から1年も経たないうちに、リーマンショックにより会社は一気に赤字に転落、早期退職という名の、実質上のリストラが行われる事態となった。中途入社して間もなかった私は、何とかリストラ対象に遭うこともなく、会社に残ることができた。

 その後、自宅の近くにあった勤務先は閉鎖となり、別の拠点に統合されたため、片道40㎞、約1時間半、毎日自動車通勤をすることになった。早期退職で人員は減ったのに、仕事の内容と量はそのまま、当然みんな忙しく辛い日々が続いた。

 そんな中、サービス残業で労働基準監督署の査察が入り、未払い残業代が支払われるという事件が発生した。それからというもの、会社と労働組合(労使協調路線)は設計開発業務の部署には「裁量労働制(みなし残業)」を採用した。

 当然反発もあったが、なしのつぶて、全労働組合員に対する間接部門人員は少なく、かつ設計開発業務に従事する人間の割合はほんの少数である。当事者ではない社員は、会社や労働組合の話を信じて大半の人は賛成、裁量労働制は採用されてしまった。

 設計開発業務の部署は、毎月120~160時間の残業が続くが、みなし残業代30時間分が支払われるだけであった。そして、体調を崩した。最初は胃の痛み、手の痺れ、左耳の難聴、帯状疱疹、不眠など。各診療科を受診したが異常はなく、結果、精神的なものと判断され、約6か月休職した。

 その後、転勤となり、技術営業的な業務をしたが、直属上司のパワハラがひどく、毎回上司の失態で自分が代わりに本社営業に呼ばれ、客先に土下座しに行くような仕事だった。

 そして、2度目の休職となった。あまりのパワハラで自己拡散状態に陥ってしまい、ほぼパニックと気絶状態、救急車で搬送される事態となってしまった。そして強制的に休職。約一年半、猛烈に苦しんだ。この経験を基に、各話に詳細を記載する。

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