第33話 仲睦まじい親子

 碧はエレベータではなく階段を使い、三階の西側にある三〇五号室の我が家へと向かう。玄関の鍵は既に開いており、扉を開けると廊下には明かりが灯っていた。


「ただいま」

「おかえりなさい、お父さんっ!」


 居間から翡翠が顔を出し、碧を出迎える。先程、管理人室で会ったばかりだというのに、翡翠は喜びで顔を漲らせていた。


 碧の精子と卵子によって生まれたからなのだろう、翡翠の容姿は碧によく似ている。碧が未だに若々しい容姿を保っていることもあり、初対面の相手からは歳の離れた「姉妹」と勘違いされるほどだ。一方で温和な性格の碧とは違い、翡翠はよく笑い、よく怒り、よく泣く。そういったストレートな感情表現が翡翠の魅力の一つなので、碧は親としてたまらなく愛おしかった。親馬鹿とも言うが。


 碧はまず洗面所へ行き、手洗いとうがいを行う。親としても養護教諭としても、 それらの習慣を疎かにするわけにはいかない。一通り済ませた後、寝室へ足を運ぶ。スーツを脱ぎ、白地のトレーナーとジーンズに着替えた。

 脱いだワイシャツを洗濯用の籠に入れると、碧は居間へと向かう。居間はカーテンやソファ、リビングテーブルなどに至るまで、白を色調としたコーディネイトがなされていた。室内の装飾は高級感とは無縁だが、全体的に落ち着いた雰囲気を生み出している。


 翡翠は、碧が来るのを今か今かと待ちかまえていたようで、碧の腕を絆創膏だらけの手で引っ張ってきた。


「よし、それじゃ夕飯の用意をしようか」


 碧がこの『フルール』に入居することを決めた理由の一つは、バリアフリーの配慮がなされているからだ。部屋の廊下は広めに設計されており、手すりが壁に備え付けられている。台所は居間との境がない、いわゆるリビングキッチンとなっていた。おかげで翡翠は、楽に車椅子で移動できる。


「お父さん、今日は何作るのっ」

「昨日、スーパーで安売りの鯖を買っておいたんだっけ。そうだなぁ……鯖の味噌煮と、春キャベツのポタージュなんてどうかな」


 碧は台所の蛇口でもう一度手を洗い、冷凍庫から鯖を取り出す。ボールに酒、みりん、醤油、味噌を合わせて入れ、調味料を作成。一方でまな板に置かれた鯖に、手慣れた包丁さばきで切れ目を入れていく。


「私もっ、私もお手伝いする!」

「うん、じゃあキャベツを切ってもらおうかな。その前に、ちゃんと手洗いすること」

「はーい!」


 碧の指示に従い、翡翠はモミジのような手を水でしっかりと洗う。

 翡翠は生まれつきの足の障碍により、碧のようにじっと立つことができない。そのため、車椅子に座ったまま、台所のテーブルに向かって作業を行う。


「よいしょ、っしょ!」


 やる気を漲らせた翡翠は、まな板の上に置かれたキャベツを、包丁でゆっくりと切り刻んでいく。その様子を碧は見守りながらも、湧いた湯に鯖をつけ、霜降りを施した。


 親子の共同作業は進んでいき、一時間後には料理が完成した。


「よし。さ、翡翠。あとはご飯をよろしく」

「うん!」


 翡翠は炊飯器の蓋を開け、自分と碧の茶碗にそれぞれご飯を盛り付けていく。米は朝、家を出る前にタイマーを入れてあったおかげで、ちょうど炊き立てだ。準備を整えると、翡翠がテーブルの自分の席に車椅子を止める。それを確認した後、碧は翡翠の正面の席に腰かけた。


「では、いただきます」

「いただきまぁす!」


 二人で一緒に手を合わせてから、食事に移る。翡翠がまず鯖の味噌煮に箸を向け、口へと運び入れていく。その様子を碧は、固唾を飲んで見守った。


「どうかな?」

「うん、美味しいっ。お父さん、また腕を上げたね」

「そうでしょ? 三橋さんに教えてもらっているからね」

「昔はすっごくお料理が下手で、お魚とかよく焦がしてたのに」

「……それを言われると、耳が痛いな」


 翡翠を産むまでの碧は、料理など学校の家庭科の授業でしかやったことがなかった。おかげで翡翠の前では、親として格好悪いところを随分と見せてしまったものだ。


「あーあ、私も一人で料理ができたらなあ。お父さんが学校から帰ってくるまでに、晩御飯を作っておいてあげられるのに」

「いつも言っているでしょ。一人で火を使ったり、包丁を持ったりしちゃダーメ」

「ちぇ」


 不服を隠そうともせず、翡翠は口を尖らせる。彼女の癖だ。それを見ながら、碧は優しく微笑みかけた。


「でも、今日も手伝ってくれてありがとう。翡翠が一生懸命、家のことを頑張っているのは、僕も知っているからね」

「うんっ!」


 その後は、翡翠が今日のクラスでの出来事を語った。算数の授業で、一億までの桁を教わったこと。休み時間には、友達と一緒に絵を描いていること。今月に転校してきたばかりの男子児童が、女子にちょっかいをかけてばかりいること。等々……それらの話を楽しそうに話す翡翠の声と笑顔が、一日の仕事で疲れた碧の心を癒していく。


 一〇年前までの碧は、自分がこうして家庭を築くとは思っていなかった。自分の肉体や性自認の曖昧さを言い訳にし、家庭を持つことに対して怯えていたからだ。しかし、翡翠と一緒に過ごしていくにつれ、そんな臆病さを忘れていった。今はただ、翡翠が健やかに成長していく様子を見守るのが、親として何よりの楽しみである。


「そういえば、クラスの子にまた同じこと言われたよ。『新城先生と翡翠って、本当にそっくりだねー』って」

「そっくり、か。翡翠は、もっと違う顔に生まれたかったかい?」


 碧がそう問うと、翡翠は誇らしげに自分の頬を指さす。


「そんなわけないよ。お父さんとそっくりなこの顔も、この身体も、私とお父さんが親子だっていう、何よりの証拠なんだから。すっごい自慢だもん」

「そっか」


 翡翠が碧の遺伝子を丸々受け継いだ存在であるとはいえ、二人の容姿がここまで見事な瓜二つになるとは、碧の予想を超えていた。あと四、五年も経てば、二人が一卵性双生児の姉妹だと間違えられるかもしれない。


 だが、どんなに似た容姿を持っていても、碧と翡翠は別の人間だ。翡翠は、碧が持っていない魅力を数多く持っている。


「それにお父さん、男の人だけどすごく肌も綺麗で可愛いでしょ? 娘の私も将来、美人になれたらいいな、って期待してるんだー」

「娘に可愛いと褒められる父親、ってどうなんだろう。でも、美人になれるかどうかは、翡翠のこれからの努力次第だからね」


 そうして、夕飯を全て食べ終えようとしたとき。碧は、先刻三橋から受けた話を思い出した。いくらか迷った末に、話を切り出す。


「そうだ、翡翠。一つ質問してもいい、かな」

「うん? どうしたの、真面目な顔して」

「翡翠は、お母さんがほしいと思ったことってある?」


 その切り込みを全く予期していなかった翡翠は、円らな目をさらに丸くさせた。やや間を置いて、からかいを多めに孕んだ口調で問い返してくる。


「どうしたの、お父さん。もしかして、付き合ってる人がいるの? その人と結婚を考えてるとか? 娘の私に隠れて付き合うなんて、水臭いよ。やっぱり、相手は岸本先生?」

「どうして、そこで岸本先生が出てくるのかな。それに、残念ながら今は相手がいないよ。でも、僕と二人だけの生活だと、翡翠が寂しくないのかな、って思ってね。それにほら、翡翠もお年頃の女の子なんだし、お父さんよりも女の人が相手の方が相談しやすい悩み事だってあるだろう? ……どうかな?」


 碧が遠慮がちに言う。すると、見る見るうちに翡翠の目じりがつり上がっていく。幼い顔を怒りで火照らせ、小さな拳をテーブルに叩き付ける。


「どうしてそういうこと言うの」

「え」

「私は、お父さんと一緒にいられたら、それで充分幸せなのっ。お父さんがお母さんの分も一緒にいてくれるから、寂しいと思ったことなんてない!」


 真っ直ぐに睨み上げてくる翡翠に対し、碧は思わず椅子に座ったまま身を反らしてしまう。同時に、自分がいかにデリカシーのない発言をしたのかを思い知らされた。


「……ごめん」

「分かればよろしい」


 平らな胸を張り、翡翠が偉そうに深く頷く。碧は、世の父親の多くが娘に頭が上がらない理由が、少しだけ分かったような気がした。


「それにしても、お母さんかぁ。私のお母さんって、どんな人なんだろ。写真も残ってないし。お父さん、けっこう抜けてるところあるから、逃げられちゃったんじゃないの?」


 翡翠は、自分の出生の秘密をまだ知らない。碧の身体のことも含め、今こそもう一度説明を試してみる機会ではないだろうか。碧が意を決しようとしたとき、翡翠は先んじて語気を強めて話を続ける。


「あ、何度も言うけど、私はお父さんとの今の生活が一番幸せなんだからね。ご馳走様でした!」


 そう言うと翡翠は車椅子を漕いで、台所から隣の居間へと移動していく。どうやら、「この話には、今後あまり踏み込みたくない」という翡翠なりの牽制のようだ。娘の胸中を察し、碧は首を垂れた。

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