第6話 無駄な抵抗
●二〇〇八年 六月六日(木曜日)
碧とて当然、自身に突き付けられた無理難題を、けっして呑み込めたわけではない。
仕事や私的な用事から帰宅する真一を、玄関で毎回のように待ち構えて出迎えていた。
泣き落とし、媚び、脅迫。長年一つ屋根の下で暮らしてきた経験から、どれも成功率が極めて低い手であるとはよく分かっている。その上で、自分が持つカードを切り、辛抱強く交渉に臨んでいく。
この日の晩は、兄のスーツの袖を掴んで縋りついた。
「お願いします。研究を中止するように、兄さんからも働きかけて下さい!」
「……その話は聞き飽きた、と何度言えば分かる。プロジェクトは決定し、研究が既に進められているんだ。今更中止なんてできるわけがないだろ」
真一は、面倒くさそうに碧の手を払いのけた。不機嫌そうな声には、うんざりという響きがある。
それでも、碧は兄の背中に必死でしがみついた。なにせ、自分の人生を大きく左右する問題なのだ。例の研究を断るよう、真一にどうしても協力してもらわねばならなかった。
(自分の精子と卵子で子どもを産むなんて、受け入れられるわけないでしょ、普通!?)
妊娠、出産。どちらも自分とは無縁と考えていた。それが、このような形で実現するかもしれない、などと! 想像しただけでも、怖気が走る。
どうやら早乙女の場合、倫理のブレーキが完全に根元から折れているらしい。もしかして、研究の道を探求する人種は、皆ああいうタイプの連中なのだろうか。人の命を救う医療の分野に携わる人間だというのに。
あるいは、だからこそ、なのか。現在、当たり前のように使われている医療技術の数々も、昔の医師達が狂気や残酷とさえ言える研究の果てに、ようやく生み出した代物が少なくない。碧もそんな話をテレビ番組などで聞いたことがある。
「兄さん、どうかっ!」
「しつこい!」
雷鳴のごとき、真一の一括。同時に彼の硬い拳が弧を描き、碧のこめかみに激しくねじり込んでくる。
碧は歯を食いしばることすらできず、その場から弾き飛ばされた。脳が左右に揺れ、意識が一瞬だけ真っ白になる。我に返ると、少し遅れて激しい痛みが襲ってきた。まるで、バットで殴られたかのような衝撃が、頭部全体を駆け巡っていく。
「う……っ」
床に倒れ、うめき声を漏らす碧。殴られた個所を手で押さえる。
その様子を、真一が傲然と見下ろしていた。侮蔑と苛立ちがたっぷりと混ぜられた、白い眼差し。碧と血が繋がっている事実への嫌悪が、全身から強烈に放たれる。
「ふん。俺だって、好きであの女に顎で使われているわけじゃない。他人を利用することは大好物だが、他人の駒になるのは真っ平御免だ。このまま、あの女に脅され続ける人生を送るつもりもない」
どす黒い怨嗟を、忌々しげに吐き捨てる真一。そもそもの原因が彼自身にあるくせに、尊大な態度からは反省の色がまるで見えない。
「……だが、今は相手を油断させ、耐えるしかない。反撃の糸口を掴むまではな。お前には、それまでの時間稼ぎをやってもらう」
時間稼ぎ。碧はその『駒』というわけか。
まさか、それが終わるころには、碧が出産しているのではなかろうか。さらに、次の妊娠も……?
「念のために警告しておくが、この家から逃げよう、なんて妙な気は起こすんじゃないぞ。研究がお前のせいでぶっ壊れたら、俺が告発される。あの女は医学会における自分の権力を誇示するために、他の連中への見せしめとして、絶対にやるに違いない。俺がこの研究の情報を外部にバラせないよう、念入りな裏工作でこちらの身動きを封じた上でな」
「そ、そんなのは全部兄さんの責任です。僕に押し付けないでください」
殴られた痛みに抗い、碧はどうにか反論の声を振り絞る。
これまでの人生では、歳の離れた兄の圧力を畏怖し、ひたすら押し黙ってきた。だが、今回ばかりは屈するわけにいかないのだ。視界を滲ませる、透明な涙を指で拭い。なけなしの勇気をかき集め、真一の顔を睨み返す。
対する真一は、口元を歪めて冷笑。いとも簡単に跳ねのけてくる。
「生意気に口答えするな。あとな、お前の学費は、俺の稼ぎと親父の遺産から捻出されているんだ。仮に、この家を出て大学をやめたとしても、何の資格も持っていないお前に何ができる。例えば、並みの男と比較して筋力や体力の劣るその身体じゃ、汗水垂らしての力仕事なんぞ務まるはずがないさ。餓鬼が社会を甘く見るなよ」
真一はそう言い捨てると、話はおしまいとばかりに背を向けた。
「待って下さい、話はまだ終わって――」
引き留めようと立ち上がりかける碧。その細く形の整った顎を、真一の回し蹴りが勢いよく打ち抜いた。
再び床に倒れ伏した弟を冷たく一瞥だけし、真一はすぐに背を向ける。そうして自室のある二階へ向け、階段をのぼっていった。
結局、碧の抵抗は無駄な失敗に終わった。
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