第6話 三好梓 Lady's Kisses 9/28 (fri)
「や、やべぇ……」
俺は駅から会社のビルまでの短い距離を、必死で走っていた。
夕べ遅くまでネットの情報を漁っていたから、つい寝坊してしまったのだ。
「はぁはぁはぁ……」
どうにかこうにかギリギリでタイムカードを押した時、後ろから会いたくない人物に声をかけられた。
「芳村君」
「あ、榎木さん、おはようございます」
クール、クールだ。何もなかったかのようにスルーだ。
「キミ、ちょっと会議室まで来てくれるかな」
「あ、はい」
デスヨネー。
「先輩、なにかあったんですか?」
隣の席の三好が、心配そうに小声で聞いてきた。
三好梓、二十二歳。こいつは、うちの新人で、俺が新人教育係をやった関係で、結構懐いてくれている。ナチュラルなグラデーションボブに纏めた小柄な可愛らしい系美人で、くるくる動く小動物が側にいる感じだ。
数学、特に数値解析方面が優秀で、開発部のホープ的な位置づけだが、ワインマニアな所だけが玉に瑕だ。
「榎木さん、昨日からぴりぴりしてて、誰も近づけない感じだったんですよ」
「昨日、誰かがミスった取引先へ、どういうわけか謝りに行かされて、何が何だか分からないうちに取引を打ち切られたと思ったら、榎木に俺のせいにされた」
「はい? 意味が分からないんですけど……」
「心配するな、俺にもわからん」
「……先輩。大丈夫なんですか?」
「さあ。それもわからん」
「おい、芳村!」
会議室から呼ぶ声が聞こえる。すでに君がとれてるくらいイラってるのか。
「おっと、呼んでるから行ってくる」
「あ、はい。なんていうか、頑張って下さいね」
なんだか微妙に応援されて、俺は会議室へと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「はぁ~」
どさりと自分の席に腰掛けると、深いため息をついた。
もういつまでもいつまでもねちねちねちねちと、お前暇なのかよと思わず言いそうになったくらい午前中一杯陰険に罵倒された。同じ事をいつまでも繰り返すくらいなら、さっさと仕事させたほうがマシなんじゃないの? と何度言いそうになったことか。
もう、やってらんねー。ホント、辞めてやる。
「お疲れさまです」
「まったくだよ。大体俺は、本来研究・開発職だぞ。なんで営業みたいな真似までさせられているんだよ」
「まあまあ、先輩、ご飯に行きましょうよ」
「何はなくても腹は減るってか。……そうだな、いくか」
しばらくして、俺たちは、少し離れた場所にある、イタリアンに座っていた。
この店、少し高いのだが、その分会社の人間に会うことはほぼないし、聞かれたくない話をするときは丁度良いのだ。
「辞めるって……先輩の気が短すぎるんじゃないですか? 今回だって部長に嘆願しても良かったんじゃ……」
三好が、ストロッツアプレティをフォークで刺しながらそう言った。白ワインで煮た山羊のラグーソースだ。
「いや、もう榎木のケツをふく仕事はいやだ。限界だ」
「ケツをふくとか言わないでくださいよ」
三好が顔をしかめてそう言った。
確かにラグーソースは、なんというか、そう言うものに似ていると言えば、言えなくもない気がしないでもない。
「わりっ」
俺は、カチョエペペをくるくるとフォークで巻き取りながら、謝った。
「でも、もしもそんな理由で辞めたら自己都合退職になっちゃいますから、失業保険が降りるの三ヶ月後ですよ?」
「いや、おまえ、二十八の社会人に三ヶ月分くらいの貯金は……あれ? あったかな?」
「知りませんよ」
三好が呆れたように言う。
「それより午後はどうするんです?」
「なんかもう面倒になっちゃったし、どうせ金曜だし、辞めるつもりだし、このまま帰っちゃおうかな」
「私物、どうするんです?」
「うーん。三好、纏めて俺んちまで持ってきてくれない?」
「ええ? どれが私物かわかりませんよ!」
「それもそうか。じゃあ、週明けにまとめて有給とって、退職届をたたきつけたら、ささっと纏めるか」
「先輩、本当に辞めちゃうんですか?」
三好がフォークを置いて上目遣いにそう言った。
ショートボブの片方がはらりと落ちて、ちょっとドキっとした。
「う。三好、そういう攻撃、何処で覚えたわけ?」
「ふっふっふ、女のたしなみですよ、たしなみ。でも先輩が辞めちゃうと、今のプロジェクトどうなるんですかねぇ……」
窓の外には、微かに葉が色づきかけた街路樹が風に吹かれて、ひっそりと秋の気配を漂わせ始めていた。
「さあ。榎木がなんとかするんじゃね?」
「絶対無理だと思います。ああ、無茶振りが来たら、私も辞めちゃおうかなぁ」
「おいおい、辞めるって、あてはあるのか?」
「大学の時の先輩が、ガッコの産学連携本部で医療計測系のベンチャー作ってまして。何度かそこに誘われたことがあるんです」
「……おまえ、なんでうちの会社にきたのさ」
今時、総合化学メーカーは割とじり貧だ。利益率もいまいちよろしくない。
そうこうしているうちに、セコンドの皿が運ばれてきた。今日は仔羊らしい。
ピンク色の肉がとても美味しそうだ。今の季節らしく、トランペットやジロールが添えてあった。
「私のことより先輩ですよ。会社を辞めて、どうされるんですか?」
「うーん。とりあえずダンジョンに潜ろうと思ってる」
「は?」
なんだよそのアホの子顔は。だがまあ、驚くよな。俺だって驚くと思う。
「知らない? ダンジョン」
「いや、知ってますけど……なんですかいきなり? 素材研究をやめて、素材をとりに行くってことですか? そんな人でしたっけ?」
まあ、ずっとコンピューター使う系の仕事ばっかりだったし、アクティブな感じはしないよな。あ、でも三好にはちょっと自慢したい気がする。こいつなら黙っていてくれそうだし。
「失礼だな。三好、ダンジョンカードって知ってるか?」
「持ってますよ」
「へ?」
「大学の時に誘われて、何度か代々木に行きました。最初はカード取得ツアーでしたけど」
「なんで?」
「オーブのこともありますけど。まあファッションみたいなものですかね?」
ファッションでダンジョンとは、イマドキの大学生はどうなってんだ。
「ランクは?」
「さあ。よく覚えていませんけど。八千万だか九千万だかだったと思います」
「ふっふっふ。実は俺も持っている」
「まあ、そうでしょうね。でないとダンジョンへ潜るなんて発想にならないでしょうし」
三好の持つペルスヴァルの9.47が、抵抗なく仔羊の肉に沈んでいく。
肉汁が一杯に詰まっているように見える、ピンク色をした切断面は、それを一滴もこぼすことなく、口元へ運ばれた。
「三好、ここから先は誰にも内緒だぞ? 喋らないと誓え」
「なにに誓うんです?」
「ん? そういわれればそうだな。あれ? 神さま?」
「そんなもんいませんし」
「まあいいか。とにかく内緒だ」
「このアニョーに誓います。食べかけの」
「なんだかいきなり安っぽくなった気がする」
「え、このランチセット結構しますよ。センパイノオゴリデスヨネ?」
「ああ、失業しようかって男にタカるとは、なんと心ない後輩だろう」
「ゴチニナリマース。で、なんなんですか?」
「アニェッロの誓いを忘れるなよ。因みにイタリア料理だからイタリア語にしてみました」
そう言うと、三好は少しふくれながら、呆れたように言った。
「先輩は、そういうところが女性にもてない原因だと思います」
「やかましいわ。ちっ、これを見て驚け!」
そういって俺は、三好の前に、自分のダンジョンカードを、ぱちりと軽い音を立てて置いた。
「Dカードじゃないですか。一体なんだって言うんで……はいいいい?!!!」
三好は思わず声を上げて、慌ててまわりを見回した。
一瞬いくつかの席からこちらに視線が飛んできたが、すぐに興味を無くしたように食事へと戻っていった。
「こ、これ、なんなんですか? 偽造カード?」
三好は、ぐっと体を乗り出して、小声で囁いた。
「あほか。そんなもの作ってどうすんだよ」
「えーっと、後輩を驚かせる?」
「しょぼい」
「だってこれ、Rank 1 って書いてありますよ?」
「凄かろ?」
「確かに先輩の名前が書いてありますし、カードも何となく本物っぽいですし……ちょっと待って下さい」
三好はスマホを取り出すと、何処かにアクセスした。
「ほんとだ。WDARLの一位が、エリア12の匿名探索者になってる……」
そう言って、表示されたリストを見せてくれた。
「偽物だと思ったのかよ」
「いや、そりゃそうでしょ。だってブラックの星みたいな先輩の勤務スケジュールのどこにダンジョンへ行く暇があるって言うんです?」
「ブラックの星ってな……まあ、そんな時間がなかったのは確かだが」
「どんな卑怯なワザを……」
「いや、お前、俺をなんだと思ってるんだ」
「三年前から毎日業務で潜っている、軍のトップを差し置いて一位ですよ? 卑怯なワザでも使わないと、絶対に無理だと思うんですけど」
「まあ、いろいろな。てか黙ってろよ」
「言ったって誰も信じてくれませんって」
「……そりゃそうか」
そうこうしているうちに、デザートが運ばれてきた。
ここのスペシャリテになっている、モンブラン、いや、モンテ・ビアンコか。もちろん栗だ。甘さはガッツリあるが、べたつかない。やはりスイーツにはある程度の甘さが必要だと思う。
「しかもスキルまでありますよ! まあ、一位なら当然か……で、メイキング? 五月の王? って、なんだかジャガイモみたいですね。どんなスキルなんです?」
「しらん」
「は?」
三好は本日二度目のアホの子顔を晒した。
「三好、スキルってどうやって使うのか知ってるのか?」
「持ってないから知りませんよ」
「だよな」
「でも、使った人のブログは見たことがあります。えーっと確か……カードのスキル名を押さえて、その名前を吟じる、だったかな。慣れるまではそうやって発動の練習をするんだそうです」
「へえ。そうなのか。わかった。やってみる」
「やってみるって、使ったこと無いんですか?」
「ん? ああまあ。黙ってろよ」
俺はスキルについても念を押した。
三好は、それで一位って、一位って……とぶつぶつ言っていたが、まあいい。
「スキル名を押さえて吟じる、ね」
俺はDカードのスキルを名部分に触れると、小さな声で言われたとおりにスキル名を吟じてみた。
「メイキング」
「…………」
これ、なんだか厨二病みたいで、結構恥ずかしいな。
「なんだか十四歳の病みたいで、ちょっと照れますね」
「だー! お前が言うな!! 黙ってろ!」
「いや、先輩。効果が分からないスキルをこんなところで発動させて、攻撃魔法だったりしたらどうするつもりなんですか」
む、それはそうか。
とにかく試したくなるのは、研究職の良くないクセだな。いや、俺だけかもしれないが。
「確かに」
「でも、先輩が『メイキング』って呟くのったら……ぷぷっ」
「う、うるさいやい」
お前が教えてくれたんだろうが。
「だけど、それでダンジョンだったんですね。まあ一位ならべらぼうに稼げるでしょうけど」
「そうなの?」
「エリア2のキングサーモンさんなんて、自家用ジェットで世界中飛び回ってますよ」
「誰、それ?」
「先輩が一位になるまでは、唯一シングルの匿名探索者だった人です。現在ランク九位ですね」
「匿名なのに名前バレしてるのか?」
「このくらい上位になると、有名人ばかりですから。ランキングリストのエリア情報から身バレするんですよ」
「なるほど。この場合だとエリア2のトップエクスプローラーだってことで、ばれるわけか」
「ですね」
ダンジョン産の流通可能な最重要アイテムはポーションだ。
しかし、軍産はほとんどが自家消費か、国家の戦略物資になるから一般には出回らない。結果として、一般に出回っているポーションは、大抵民間の探索者が提供することになるわけで、彼らにはかなりの高額が支払われているようだった。俺もワンチャンあるかな?
「先輩、先輩。いまちょっとコメント欄を見たんですが、突然現れた一位なのに、エリア12には該当者がいないから、ネットの中は大騒ぎになってますよ」
「マジで? エリア12って有名人がいないの?」
「日本はJDAの管理下に置かれた時期が早かったですから、勝手にダンジョンに突撃した人達がほぼいないんですよ。だからトップグループは全て自衛隊で占められていて、民間のエクスプローラーは、ずーっと下がって、上位グループでもフォースくらいみたいです」
「一〇〇〇位台?」
「そうです。トリプル後半に時々ランクインするかどうかってところですね」
「ロシアやインドネシア、あとオーストラリアもあるだろ?」
「エリア12の日本以外の国は、場所的にあんまり人口がいないので」
「ははぁ……」
「先輩」
三好が突然改まって背筋を伸ばした。
「なんだ?」
「私が会社辞めたら、雇って下さい」
「はい?」
「だって、これから先輩はダンジョンに潜って生計を立てるんですよね?」
「まあ、たぶん。他にあてもないしな」
「だけど、有名になりたくないんでしょう?」
三好が薄く笑ってそう言った。こいつは俺のことを意外とよく見てるからなぁ。
「……まあ、そうだな」
「じゃあ、エージェントがいるじゃないですか」
「エージェント?」
「JDAに知られることはある程度仕方がないとして、取得物を自分で売るためにはJDA発行の商業ライセンスがいるんですよ」
「へー」
「で、それで売買すると、商業ライセンスから身バレします。これは絶対に避けられません」
「ああ、特定商取引に関する法律とかあるもんな」
「だから、私が商業ライセンスをとって、先輩の取得物を販売すれば――」
「ライセンスからたどれるのは、三好までってことか」
「ですです。敏腕マネージャ兼エージェント。
「実態は?」
「先輩に寄生してピンハネする気満々の近江商人です!」
「お前な……」
しかしこいつなら秘密は守ってくれそうだし、結構付き合いやすいし、良いアイデアかも知れないな。
「わかった。考えとく」
「先輩!」
「でもまだどうなるかわからないだろ。我慢できる間は退職するな。俺もすぐに活動できるってわけじゃないし。講習も受けなきゃいけないみたいだしな」
ダンジョンに出入りするには、探索者登録をして講習を受ける必要があるらしい。そこで管理用の探索者カードが発行され、そのカードが探索者証となるということだった。それってDカードの意味はなんなんだろう?
「……ちょっと待って下さい」
三好がエスプレッソのカップに指をかけたまま、不思議そうな顔をしてそう言った。
「ん?」
「なんでDカードを持っているのに、探索者登録がまだなんです?」
「……あー、野良ゴブリンを倒した、とか?」
「とかってなんですか、とかって。大体、野良ゴブリンってなんですか。そこらの路地裏をゴブリンが歩いていたら怖いですよ! 怪しい……」
「まあ、いいじゃん。そのうち話すよ。ほら、昼休みが終わっちまう」
「……約束ですからね」
「ああ」
「じゃ、ご馳走様でした!」
三好はそう言って、最後のマカロン――いや、バーチ・ディ・ダーマか――をぱくんと口に入れて、エスプレッソを飲み干した。
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