【恋愛】「シャーペン」「桃」「キーボード」
静寂の中、キーボードを打つ音だけが部屋に響く。
しばらく一定の速度でリズムが刻まれていたかと思えば、急にスローテンポになる。再び勢いを取り戻して軽快に進み始めたところで、また唐突にスピードが落ちる。
まるでレベルの違うピアノ曲を初見で弾こうとしているかのようだ。
それは、少しでも楽器をかじったことのある人間なら、歯がゆい気持ちにさせるのに十分な行為だった。
熟考の末に紡ぎ出した文章を、思い直して一息に削除したなら尚更のこと。
唸るような声を発し、完全に沈黙した画面越しの世界を前に途方に暮れた。
今日はここまでかもしれない。昨日も一昨日もほとんど進まなかった原稿を読み返す気にもなれず、ため息をつく。
控えめなノックに気づいたのはその時だ。
「あなた、入ってもいい?」
短く応じると、盆を手にした妻が入ってきた。
「桃を剥いたの。少し休憩して食べましょう?」
見ると、一口サイズに切られた桃が器に盛られていた。
砂糖がふんだんに使われているデザートより、自然な甘さを味わえる果物の方が好きなことを熟知している妻からの、とっておきの差し入れだった。
無意識に顔がほころんでいたのだろう。おかしそうに笑いながら、妻が「どこに置けばいいかしら」と机に目をやる。
広げっぱなしの資料。書き散らかしたメモ用紙。その上に転がっているシャーペン。
PCの周りを埋め尽くしていたそれらを一ヶ所にまとめ、スペースを作った。
空いた場所に器が置かれると、早速フォークを持って口に運ぶ。
じゅわりと満ちる瑞々しい果汁を確かめ、更に頬が緩んだ。
「美味いな」
「よかった。まだあるから、食べたかったら言ってね」
「ああ。その前に、お前も食べろよ」
新たな桃にフォークを刺し、妻の口元まで持ち上げる。
驚きの表情を浮かべたのも束の間、ぱくりと食べた妻からも「美味しい」の一言が出て、二人で笑い合った。
重苦しかった空気が一掃され、心なしか肩も軽くなった気がした。
これこそが妻の素晴らしいところだ。
ともすれば一日中部屋にこもりっきりになる自分を心配して、散歩に連れ出したりつまめるものを持ってきたり、献身的にサポートしてくれる。
どれだけ書けなくても鷹揚に構えている妻がいるから、その姿を見て落ち着きを取り戻せるのだ。
小説家という仕事から孤独さを和らげてくれたのが妻だった。
だからこそ、そんな妻への感謝の気持ちを込めて、今日も文字を生み出そうと思って原稿に向かう。
愛する者への恋物語を綴るために。
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