【恋愛】「古本」「名前」「運命」
幼い頃に一度読んだだけの本だった。
タイトルも、どんな表紙だったかも覚えていない。
記憶にあるのは、引っ込み思案の男の子が、さらわれた女の子を助けにいくということだけ。
学校に行くことすら苦手な主人公が、大切な幼なじみを救うために、勇気を出して外の世界に踏み出す。
その姿に、当時なかなか友達ができず、一人でいることが多かった自分を重ねたのかもしれない。
あるいは、己と違ってきちんと大事な存在を自覚した主人公に憧れを抱いたのかもしれない。
とにかく、名前も知らないその男の子の印象がやけに鮮明だった。
そして、その物語を読んでいた当時、傍らに髪の長い誰かがいたことも、なぜか脳裏に刻まれていた。
(この本でもないか……)
駅前にある大型の本屋に入り、児童文学のコーナーをうろうろすること数十分。
何となくあたりをつけては本を開き、しばらくして棚に戻すという行為を繰り返している。
あの頃から十年経った今になって、昔夢中になったのがどんな本だったのか妙に気になるようになった。
それ以来、空いた時間に本屋を覗いてチェックしてみるものの、成果のない日が続いている。
やはり、タイトルすらわからないことがネックになっているのだろう。
砂丘の中から宝石を探し出すようなものだ。見つかれば奇跡と言っていい。
それでももう一度読んでみたい欲に抗えず、今日も本の海に溺れそうになりながらさまよい歩いた。
ネットで検索することを思いついたのは、本屋を巡り始めて一ヶ月ほど過ぎてからだった。
現代社会で真っ先に取る手段だろうに、なぜ今まで思考の端にものぼらなかったのか。
我ながら鈍すぎると呆れつつ、早速引っかかりそうなキーワードを入力して情報を精査する。
すると、さほど時間を費やすことなく目的のものを掘り起こした。
(これだ)
空色のカバーに主人公が描かれている装丁。
あらすじを目で追うと、自分の記憶と微かにリンクして胸がざわめく。
けれど、頭の中を刺激するのは本の内容だけで、傍にいたはずの誰かのことは思い出せないままだった。
ひとまず探し当てられたことに安堵し、通販で購入しようとページを移ると、
「絶版……?」
とっくに販売終了となっており、入手困難な現実を突きつけられた。
どおりで本屋にそれらしいものがないわけだ。
当然ながら、ネットで手に入れることも不可能に近い。
唯一可能性があるとすれば古本だが、またしてもあるかどうかわからない本を求めて回るのは時間も体力も消費するだろう。
――考えることしばし。
答えが出ると、自分の好奇心の深さを潔く諦め、腹をくくった。
◇◇◇◇◇
(今日も空振り、か)
もう何軒目になるだろうか。
市内にある古本屋を制覇しそうな勢いで攻めているにもかかわらず、目当ての本がなく落胆する。
どうあがいても絶版という事実は重く、手にするまでの道のりは険しかった。
もういいんじゃないか、という囁きが日に日に大きくなっていく。
自分でもどうしてここまでこだわるのか説明できない。
たかが本の一冊、手元になくても困ることはないのに。
もはや本に執着しているのか、過去の記憶に執着しているのかあやふやになってきていた。
子供の自分が手にしていた本の色や大きさよりもイメージが湧き上がる、あの光景。
真っ直ぐな髪を下ろした誰かが隣にいる、あの感覚。
あれはいったい誰だったのか。
「本を見つけさえすれば、その疑問が解けるかもしれない」
目的がすり替わっていることに気づかないまま、飽きるほど再生した景色を再びまぶたの裏に描いた。
◇◇◇◇◇
古本屋巡りを始めて何度目かの日曜日。
一度も訪れたことのない区域まで足を伸ばした。
それでも規模の大きな店に収穫はなく、手ぶらで建物を出てきつい日差しを浴びる。
休日のため、大通りは行き交う人で溢れていた。
(これからどうすべきか……)
悩みながら流れに沿って進んでいたら、人混みに酔ったのか、やや息苦しさを感じた。
呼吸がしやすい場所へ移動しようと、一本外れた道に入る。
途端にすれ違う人が減り、落ち着いて周りを観察する余裕ができた。
住宅と商店が混在している通りで、どこか地元にいるような安心感を覚える。
そのままゆっくり歩いていると、小ぢんまりとした古本屋に行き当たった。
扉が開いている様子から、一応営業はしているようだ。特に期待もせず足を踏み入れる。
それなのに、どうしてだろう。
何かに吸い寄せられるように、ある本棚の前で立ち止まった。
自分の目線より少し低い段の、ある一点。
空色の背表紙に、目をつぶってでも書けるようになったタイトル。
ようやく、出会えた。
万に一つの確率で、見つけ出すことができた。
静かに湧き起こる感動を抑えながら、そっと右手を伸ばした。
瞬間、横から伸びてきた手と触れ合った。
「っ!」
驚いて腕を引き、もう一本の腕の主へと身体を向ける。
視線の先には、目を丸くしてこちらを見つめる女性がいた。
腰まである長い黒髪を真っ直ぐ下ろした、そのシルエット。
思い出の中でわずかに残る、幼い少女が向けてきた表情。
一つの予感に見舞われながら、お互いが口を開くまであと数秒。
――――運命かもしれない。
と、普段なら絶対使いそうにない言葉が頭に浮かんだ。
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