【恋愛】「夕日」「文庫本」「割れたマグカップ」
あ、と思った時には掴んでいたはずの手から滑り落ちていた。
一瞬の間を置き、派手な音を立てて破片が飛び散る。
フローリングの上で見るも無残な形になったそれに目を落とし、拾うでも掃くでもなくぼんやりと眺めていた。
割れたマグカップの持ち主は、もうこの家にはいない。
それこそ今のように、呆気なく伸ばした手を振り解いて去っていってしまった。
「息が詰まる。もう限界だ」
その言葉を皮切りに、同棲相手はこれまでの鬱憤を晴らすかのように淡々と別れの理由を述べ始めた。
丁度その時文庫本を読んでいたため、突然の宣告に、栞を挟むことも忘れてページを閉じてしまった。
その本の表紙が、夕日をメインにした装幀だったことは今でもはっきりと記憶にある。
けれど、その日以降、どこまで読んだかわからないそれを再び開く気にはどうしてもなれず、本棚の奥に押し込めたきりになっている。
相手の言い分に対して、初めのうちは驚愕のままに反論しようとしたけれど、聞けば聞くほど上手く回っていると思っていた歯車のずれが酷くなるばかりで、既に修復不可能なことを悟った。
原因が自分の依存癖にあるのだということは理解できたし、全面的に非があることも内心で認めた。
だから泣き崩れることもせず、
ただ、元から持っていた自分の荷物だけをまとめて、揃いで買った物に何一つ触れようとしなかったのを、せめてマグカップぐらいはと提案を投げかけた。
それすら冷淡に断られ、結局残して出ていってしまった日を境に、未練がましく戸棚にしまっておいたものだった。
もしかして、断ち切れない思いを叱咤するために壊れたのだろうかと考える。
同棲していた名残が色濃く香るこの部屋の象徴のように置いてあった物が、ぐずぐずと引きずる女々しさを打ち砕くための役割を担ってくれたのだとしたら。
いい加減、朝日を浴びて歩き出さなければいけない。
本当の自分を取り戻すために、過去と決別しなければいけない。
手痛い失恋と人生の挫折だったけれど、それでもまだ心は健全な光を欲している。その光は自分自身で手に入れるものだということも知っている。
そのためには、今ここから動き出さなければ。
それが今できる最良のことで、そうするよう促された気がした。
砕け散ったマグカップをひとまとめにし、紙にくるんでビニール袋に入れると、きつく縛って恋心の残滓と共にごみ箱へ捨てた。
そうして、思った以上に軽くなった身体で、中断していた荷造りを再開した。
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