第3話 朝 朝栄荘

 朝が来た。

 窓から射す光が祝福のように、それでいて暴力的に蓮に降り注ぐ。

 蓮は身体を起こし、一つ伸びをした。猫か、植物の蔓のように音もなく身体を伸ばして、布団を畳む。

 畳み終えてから、改めてぐるりと見渡すと、簡素な赤木の書き物机と洋服箪笥が備えられた六畳一間が、やけにがらんとして見えた。広さで言えばここは雲上座の私室--元私室--の四分の一と言ってもいいくらいだが、馴染みのない場所の余所余所しさの為すものだ。心なしか空気も澄んで、冴えて感じる。そんなほの寒い部屋の真ん中に、荷物の詰まった鞄たちが身を寄せ合って慎ましやかに座っていた。

 蓮は小さい方の鞄から、中身を--気に入っていた本たちを取り出して、箪笥の上に並べた。その背表紙が背負っている言葉たちが一文字たりとも変わっていないことを、そんな当たり前のことを一冊一冊確かめて安堵した。並べていって、最後に使い古しの筆記帳を置いて、一息入れた。

 大きな鞄の中には洋服ばかりが入っていた。どれも「小峰蓮」を拭い去るために用意したと言っても過言ではなかった。今の若者がごく普通に身につけるであろう、何の変哲もない日常着を、せっせと箪笥の中に収めた。大きい鞄の中身を、穴掘りでもしているみたいに移動させていく。その底にあったのが白い紬の着物だった。よく見ると微妙に色味の違う白糸で細かい柄が織り込んであるものだ。合わせる諸々のもの(羽織やら帯やら履物やら小物やら)と一緒に一揃い、まとまって出てくる。

 蓮は一つ息を吐いて、それを一番上の段に、樟脳と一緒に丁寧に仕舞い込んだ。

 それ以外に持ってきたものなど無いようなものだったので、たったそれだけで荷ほどきは終わってしまった。


 階段を降りて、先ほど過ごした食事場へ顔を出すと、ずっとそこにいたわけではないだろうけれど、先ほどと同じ場所に薫が座っていた。

 その手前には、紙と万年筆がある。蓮の足音に気づくと薫は振り返り、「ちょっとそこへ」と食台の向かい側を指差した。

 蓮が示されたところに行って覗き込むと、紙は契約書のようだった。

「ここに名前を。一応、契約って形にしとかないとあとあと面倒だし、あたしたち的にもそっちのが気楽だからね」

 蓮は署名欄の上の文章を黙読した。指先で万年筆を取り、さらさらと紙の上に滑らせた。


 片切廉一かたきり・れんいち


 昔の名前だ、と蓮は思った。他人の名前だとも。どんな風に書けばいいのかもわからなくて、少し歪んだ字になったのがおかしかった。

「印鑑持って来れば良かったかな」と、半分冗談めかして言う。

 そんなもの、子どもの時に家を飛び出したのだから持っているはずがない。「小峰蓮」のものは、その名をもらった時に作らされたけれども、あれは法的な効力のあるものではないと思う。どちらにせよ、今は手元に無いのだし。薫もそれは分かっていて、また声を出さずに笑った。

「本当は要るんだけど、家出人あんたは特例。っていうか法律の上じゃそろそろ死亡扱いなんじゃない? 今いくつだったっけ、十六? じゃああと一年だ」

「死亡扱いか……へえ」

 蓮はしみじみと呟いた。

 随分長く経ったものだ、という感慨でもあったし、正式に片切廉一が死んだことになる、というのも不思議というか、言葉遊びや慣用句が本当に言葉通りになったような心地だった。いや、「ような」ではなく、実際その通りだ。

「でもここでもう一度名乗ったら、片切は生き返ったことになる? あんたとしてはどう?」

「ならないよ。僕は小峰蓮だ」蓮は即応した。

「そ」

 薫は気の無い返事をしたが、ふと遠い目をして呟いた。

「小峰蓮であることを捨てる気は無いってことね、……ちょっと安心したわ」

 蓮の身体を心を撫でるような、労わりの滲んだ声で、視線だった。

 蓮は目を丸くした。

「どうして? 僕が小峰蓮を捨てるなんて、そんなわけないじゃない」

「ごめんごめん、あたしの杞憂だったってば」

 薫はひらひら手を振った。

「……疲れてるんじゃ無いかと思ったんだって」

「誰が?」

「あんた以外に誰がいるの」

「……」

 蓮は黙り込んだ。

 それは、図星だった。

 青く沈んだ景色の中、歩いているとき、頭をよぎった--どころか、頭の中に居座っていた虚脱感が蘇ってくる。

 あれはただの虚脱ではなかった。孤独でもあったし、絶望、失望でもあった。光の見えなさと果ての無さに、いったいいつまで、と感じてしまったのは事実だ。

 目まぐるしい日々、何かと戦って、あるいは逃げてばかりの日々に、疲れてしまったのは。

 薫の目にはやはり、慰撫するような情が浮かんでいて、見透かされるほどに露骨だったのだろうか、と蓮はいたたまれなくなる。

 --僕としたことが。

 知らず唇を噛んでいた。

 薫は優しい調子のまま、

「……だからさ、この機会に、とは言わないけど、ちょっと休むのかなって」

「故郷には戻らないよ」

「それは知ってるって」

「それに……僕から芝居を取ったら何も……」

 言ってしまってから蓮ははっとした。

 誰にも吐いたことのない弱音だった。

 朝になって、ひどく静かなわけでもない食堂が静まり返ったような気がした。

 その中に、薫の息づかいと衣擦れの音だけが自由に響いた。

 彼女はまた頬杖をつき、にんまりと笑う。

 その反対側から、窓から入ってきた陽光が差していて、彼女を照らしていた。表情が見えづらくて、眩しくて、蓮は目を細めた。

「あたしもそう思ってたんだけどさ、」

「やめろ」

 自分の声の低さに、蓮はまた自分で驚いた。けれど構っていられなかった。かぶりを振る。

「君の口からそんなこと聞きたくない」

「そうじゃなくてさ……ちゃんと最後まで聞きなよ」

 薫の声が数段大きく--生気を孕んで、蓮は瞳だけを動かして薫を伺った。

 薫はぎらりとした光を瞳に宿らせていた。

 深淵な色に光る双眸は、懐かしいようでも、初めて見るようでもある。その光に、蓮は静かなのに、有無を言わせず、ひたひたと蔓を伸ばす朝顔の、生命の息吹を幻視した。

 彼女の声は低く、鋭く、重々しく響く。

「雌伏って言葉があるでしょ。あたしはここで機会をうかがってたわけ。そこにこうしてあんたが来てくれたこと、大げさだけど運命的なものを感じてるんだよね」

「……」

「あたしだって、芝居に関わるのをやめたら全部終わりだよ。あたしがあたしでいる意味なんてなくなるって思ってる。ただ、じゃあよ。思ったんだよ。わかったんだよ。何やってたってあたしの存在意義が芝居に戻ってくるなら、どんな風に生きてたって全部芝居の役に立つってね。そんなふうに生きてやるって、決めたの」

 どんな風に生きてたってぜんぶ芝居の役に立つ。

 それはそれほど真新しい考えでもない。懸二からも、優里亜からも、何度も聞いてきた言葉だ。けれどそれは、どこかで、ぜんぶ最後にわかることだと思っていた。あのことやこのことが芝居の役に立つのは、役に立ってから初めてわかることだと。

 だから、釈然としないのだ。

 彼女の声は昔の力強さと不遜さを取り戻していた。昨日聴いた、諦めきった声音を覚えているだけに、蓮にはそれが何故なのか、解せなかった。

「……ここで大家さんやるのも?」

「そうそう」

 薫は茶化して片目をつぶった。また、いつかの光景と重なる仕草だ。

「住人たちを役者に見立てたら、大家って立ち位置はあたしにぴったりなんだよね。住人たちが何かをしている、あたしがそれを見てる。それだけで演劇って言ってもいい状態が発生してるわけだし」

「ポストドラマ演劇みたいな話?」蓮は眉を寄せて必死に筋を追う。

「そうでもあるし。”ドラマ”を作る上でも、興味深い事例はいっぱい採集できる」

「……でも、君にはそれを発表する場がないんだろ。それが、ずっと」

「そう、それが--」

「おはようござ--」

 階段を降りてくる音ともに挨拶が降ってきて、二人は振り返った。

「あ……お取り込み中すみませんでした、どうぞ、続けてください」

 二人の視線を--それも熱心に語り出した余韻のままの瞳と、訝しげな瞳だ--を一身に受け、声の主は肩を窄めた。

 見たところ、蓮とそう変わりない年頃のようだ。部屋着なのか、灰色がかった簡素な洋服に身を包んでいるが、寝癖もなく顔も寝起きのものではなくて、きちんと身なりが整っていた。コーラス隊を仕切る鸞汰を思い出す。彼のように、勤勉というか、まめまめしい気質なのだろうか。

 薫は一度ついた勢いはそのまま、ぎらぎらした雰囲気だけ消して、蓮を小突いた。

「おはよう李央りお。いいのいいの、気にしないで。ほら片切、挨拶!」

 促され、蓮は立ち上がった。

「今日からここでお世話になります、片切です。よろしくお願いします」

 人にこの名を名乗るのは六年ぶりだった。 

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