第1章 然れど木末に水は莫し

第2話 夜明け前、朝栄荘

拝啓 朝倉薫様


 厳しい寒さが続き、春風待ち遠しい時分となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 この度は手前の無茶なお願いを聞いていただき、ありがとうございます。先日、そちらに送らせていただく荷物の集荷が済みました。引っ越しは二月の十七日になりそうです。

 これからお世話になります。不肖の身ですが、何卒よろしくお願い致します。

 季節の変わり目、お体にお気をつけてお過ごしください。


敬具


「あんた、こんなへりくだったこと書けたんだ」

 薫は大きく目を見開いて、「私はとてもとても意外で驚き呆れています」を説明的なまでに表した表情をして、便せんをひらひら振ってみせた。

 長旅を終えてへろへろになっていたこともあり、蓮はそれに「ああうん……」と役者失格な返答をして、薫の向かいに歩を進めた。

 食台を挟んで彼女と向かい合う。蓮は居住まいを正して--しかし和装でないのでほとんど正す必要が無かった--腰を折った。

「改めて、これからよろしくお願いします」

 四十五度の最敬礼。薫はぐりんと目を回した。

「ああもう、やめてよねホントそういうの、調子狂うわ。あんた本当に小峰蓮? 別の人入っちゃってない? 宇宙人に攫われたこととか無い? よくよく思い出してみなって」

「うちゅうじん……?」顔だけあげて蓮は聞き返す。

「よくあるんだよ」

「聞いたこと無いよ」要領を得ず、蓮は眉を寄せる。

「まぁ雲上座には縁のない話だろーけど」

「どの辺でよくあるの」

「場末の劇場とか見世物小屋」

「もしかして」

「それがさぁ、演出助手とかいう名目でこき使われてよ。嫌んなったわ」

「は? なにそれ」

「ほんとにね。ってかもう顔あげな。ムズムズするから」

 蓮は折った腰を元に戻した。

「……あのさ、ひとつ言っていい?」

「なに? わざわざ断られると逆に怖いんだけど。あんたは前置きもなにもなく普通にグサッと刺すようなこと言うしダメって言っても言う奴じゃん」

「あぁ、うん、まあそれはそうなんだけどね?」

「で何?」

「僕のことなんだって思ってるの?」

「小峰蓮でしょ?」

「小峰蓮をどんな奴だと思ってるの?」

「ファム・ファタールの男版?」

「……つまり?」

「傲慢で不遜で自分にどこまでも正直で魅せられたらおしまいのタチの悪い美少年」

「……」

 蓮は一つも否定できなかった。


 薫の持つ長屋に着く頃には、空はもう一度青く染まっていた。駅に降り立ったとたん、一段と厳しさの増した冷気が蓮を包んで、ああ、自分は確かに別の地に旅立ったのだ、雲上座はもう遥か遠くで、帰る場所ではなくて、寄宿舎の自室にあるあのベッドと己を繋いでいたよすがはもうどこにも無くなってしまったのだと実感した。

 身体を刺す明け方の冷気の中を進んで、例の汚い字をもう一度読み、薄明の中にぼんやり浮かび上がってきた二階建ての長屋を見上げる。大家の部屋につながると思しき扉のところに「朝栄荘」と掲げてあり、蓮は戸を叩いた。

「御免ください」

 扉の奥からごそごそと音が返ってくる。蓮が一歩引いて待っていると、戸は豪快に中から開けられた。

 彼女らしい思い切りの良さと無造作さと、それでいて雄大さとかある種の優雅さを感じるその軌道に、蓮は張り詰めていたものがほどけかける心地がした。--ああ、薫だ。

 実のところそんなふうに言えるほど薫がどんな人物か深く知っているわけでは未だないのだけれど、そこに、確かに薫そのものを見た気がした。よすがを失って宙ぶらりんになったこころに、それは鮮烈な衝撃をもたらした。

 濃い藍色のかすりの着物姿で、髪も結い上げた見慣れない姿だったが、その剛毅を秘めた瞳は蓮の知るままだった。朝倉薫がそこにいた。

「いらっしゃい」

 大家らしい挨拶とともに、薫は唇を歪めて笑ってみせる。その笑い方もやっぱり薫で、蓮はどんな表情をしたものかわからなくなってしまった。彼女の元に帰ったことなど今のところ一度も無くて、それこそこれからそうなっていくのだと言うのに、思わず「ただいま」と口にしそうになってしまった。「おかえり」と言われたわけでもないのに。それだけ、柄にも無く、浮き根の状態には慣れていると己では思っていたはずが、身を寄せる場所に餓えていたのだと自覚させられる。

 ぷっ、と妙な音がして、蓮は我に帰った。見上げれば--蓮は小柄で薫はやや長身なので、見上げることになった--薫が妙な顔で吹き出していた。口元をもにょもにょと動かして笑いをこらえている。かと思えばくつくつと忍び笑いをはじめるので何事かと思うと、

「すごい顔してると思ってさあ。あの小峰蓮が」

 困ってたら知らない人に「どうしたの?」って聞かれてどうしたらいいか分からなくなってる迷子みたいな顔だ、と薫は評した。

「あの小峰蓮が、ね」蓮は繰り返す。「僕もちょうどそう思ってたとこ」

 蓮の口の端からも、苦笑のような吐息が漏れて、やっと少し温かいものが胸に沁みてくる。

「久しぶり、薫」

「久しぶり、蓮。……とまれまずは上がりなよ。寒い中長旅おつかれさん」

 かくして冒頭の場面へとつながる。


「僕は自分の意に染まないことをやりたくないだけだから。義理を通したいときは通すし礼儀を尽くしたいときは尽くすよ。その逆も然りだけどね」

 蓮が口を尖らせると、薫は「知ってる」とにやりと笑った。

 薫に通されたこの部屋は、部屋奥に台所があり、住人たちの食事場所になっているようだった。食台は広くて長く、席も実に八人分用意されていた。住人が今どれくらい入っているのかは蓮の知るところではないが、きちんと下宿屋の体裁をしていてなんだか感心してしまった。薫と初めて出会ったときのことを思い出すと、どうにも彼女がここで大家業をやっていることがしっくりこない故の感心だった。しかし、彼女にとってここにいることはほぼ間違いなく本意ではないだろうから無理もない。

 薫と初めて出会ったときのことを思い出すと、酒と煙草と野心にぎらつく瞳と握り締められた拳とが脳裏に焼き付いたみたいに蘇る。そのときの彼女は鮮やかな色合いの洋服を着て、いくらか色の抜けた髪を下ろしていて、自由で危険で享楽的で躍動的で絢爛な夜の街が似合っていた。だから今の薫は、蓮には舞台の上の女将さん役をやっているようにしか見えなかったし、蓮の直感が間違っていなければ、薫自身もきっといまそうやって暮らしているのだと思う。お茶を淹れてくれるらしく、台所に立つ彼女の後ろ姿を見ていると、やけに「らしい」のが変で、役を自分に貼り付けて無理やり空間に馴染んでいる感じがした。ここにいるのが彼女である意味が薄い気がして厭だった。彼女の彼女らしい存在感が好きなのだ。

「さ、お待たせ。座りなよ」

 薫が二人分の湯呑みを持って帰ってくる。「ありがと」蓮は受け取って、萌黄色の水面に息を吹きかけた。「あ」さざなみが立つ。「茶柱立ってる」

「やったじゃん」薫は軽い相槌を打った。見れば、いつかのように食台に頬杖をつき、にやりとした笑みを浮かべている。彼女の役は剥がれて、一番印象に焼き付いている光景と現在が重なる。彼女が肘をつく食台はあの小洒落た店のカウンタのように見えたし、耳にあの喧騒が蘇るようだった。粗暴な音楽。宝石みたいな名前の酒。夏の夜の夢。

 重なる景色は、今この場所とあまりにも違った。

「……こき使われた話、酷いね、……酷い」

 触れないほうがいいのかもしれないとも思ったけれど、言わずにいるのが耐え難く、ここで遠慮するのも小峰蓮の柄ではなくて、逆に薫に失礼とか不誠実にあたるかもしれないとも思って、蓮は口にした。

「やめてよ。気にしてないから」

 口にしなければ耐えられない憤りを込めて蓮は言ったのに、薫は気の無い素ぶりで返してくる。蓮ははっとして薫を見た。薫は湯呑みを覗き込んでいて、何を考えているのか分からなかった。

「……もう慣れてる」

「……」

 分からなかったけれど、分からないなりに、何か察してしまった。

 彼女の声には深すぎる諦めが、もう日常的なことみたいな顔をして染み付き切っていて、蓮の臓腑はじんと痛んだ。

「……そう」

 そんなこと言わないでよ、なんて言えなかった。彼女ほどの人間がそんな風に言うまでになったということは、それだけ、……それだけの経緯があったということなのだから。

 そのまま無言で緑茶をすする時間が生まれてしまった。ここで彼女に芝居の話を振ることはどうしてもできなくて、では、何を言えばいいのか分からなかった。辛気臭い空気に耐えかねたのか、二人とも緑茶はそそくさと飲み切ってしまって、蓮は食事場を追い出された。これから新しい私室になる小部屋に案内されると、大して多くもない荷物が蓮を待っていた。蓮は荷物を抱えた大小の鞄を、ねぎらいの意味を込めてぽんぽんと叩くと、中身には手をつけずに、部屋の隅に畳んであった布団を広げて完全に朝が来るまでもう一度眠った。荷ほどきは、また目が覚めてからにしようと思った。

 布団の中で身体を丸めて、はっと気づいて目を開ける。小さい方の鞄をごそごそやり、気に入りの本だけ引っ張り出してきて、胸元に抱えて、もう一度丸まり直して、目を閉じた。

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