「清涼殿の丑寅の隅の」現代語訳・古文
○現代語訳
中宮様が几帳を押して、長押のもとに出てこられるなど、ただ何ということではなく何よりも素晴らしく、お仕えする人も何も不足ない心地がするところに、
「月も日も変わっていくけれど、永く変わらない三室の山の」
という古い歌をゆるやかに口に出しなさるのは、とても素敵に思える、本当に、千年もこうであってほしいご様子である。
給仕係が男どもなどをお呼びになる前に(帝が)いらっしゃった。(定子様は)「硯の墨をすれ」と仰るが、(私はお姿に)気を取られており、ただいらっしゃるのを拝見していたので、ほとんど(墨ばさみの)継目を放してしまいそうになった。
(定子様が)白い色紙をたたんで「これにただ今思い浮かんだ古い歌を一つずつ書け」と仰る。(御簾の)外にいらっしゃる人(伊周様)に「これはどうしたら」と申したら、「早く書いて差し上げなさい、男は言葉を挟むべきではない」と仰る。(定子様が)硯を下ろして「早く早く、考え込まないで、『難波津』でも何でもふと思ったことを」とお責めになるので、どうしてこんなに臆するのか、全て顔も赤くなり混乱した!
春の歌、花の心などと、そう言いながら女官たちが二つ三つ書いて、(私に)「ここに」と来たので、
年が経ち年齢は老いたが、花を見れば思い悩むことはない
という歌を「あなたを見れば」と書き変えたのを(定子様が)ご覧になって、「ただみんなの心持ちを知りたかったの」と仰る。
ついでに、「円融院の時代に、帝の前で『本に歌を一つ書け』と殿上人に仰ったのを、とても書きにくく辞退する人々がいた。『字の良し悪しや歌が時季に合わなくても全く構わない』と仰ったので、困って皆が書く中に、現在の関白殿が三位中将と申していた時、
潮の満ちるいつもの浦の「いつも」の名のように、いつもあなたを深く思うよ、私は
という歌の最後を「(帝の恩寵を)私は頼りにしております」とお書きになったのを、とてもお褒めになった」と仰るので、(私は)むやみに汗が落ちる心地がした。年が若い人は、このように歌を書くことはできないなどと思った。普段とてもよく書く人も、むやみに皆気をつかって、書き損じなどしたりもあった。
○古文
宮のおまへの御几帳押しやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、ただ何事もなくよろづにめでたきを、さぶらふ人も思ふ事なき心地するに、「月も日もかはりゆけどもひさにふる みむろの山の」と言ふ古言をゆるるかにうちよみ出だして居給へる、いとをかしとおぼゆる、げにぞ、千歳もあらまほしげなる御ありさまなるや。
陪膳つかうまつる人の男どもなど召すほどもなく渡らせ給ひぬ。「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目はそらにのみにて、ただおはしますをのみ見奉れば、ほどど継ぎ目も放ちつべし。
白き色紙おしたたみて、「これにただいま覚えん古言、一つづつ書け」と仰せらるる。外に居給へるに、「これはいかに」と申せば、「疾く書きて参らせ給へ、男は言加へ候ふべきにもあらず」とて。御硯とりおろして、「とくとく、ただ思ひめぐらさで、難波津も何もふと覚えん事を」と責めさせ給ふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みてぞ思ひ乱るるや。
春の歌、花の心など、さ言ふ言ふも上臈二つ三つ書きて、「これに」とあるに、
年経れば齢は老いぬ、しかはあれど花をし見れば物思ひもなし
といふことを、「君をし見れば」と書きなしたるを御覧じて、「ただこの心ばへどもの、ゆかしかりつるぞ」と仰せらる。
つゐでに、「円融院の御時、御前にて『草紙に歌一つ書け』と殿上人に仰せられけるを、いみじう書きにくくすまひ申す人々ありける。『更に手の悪しさ善さ、歌の折にあはざらんをも知らじ』と仰せられければ、わびて皆書きける中に、ただいまの関白殿の三位中将と聞こえける時、
しほのみついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが
といふ歌の末を、『たのむはやわが』と書き給へりけるをなん、いみじくめでさせ給ひける」と仰せらるるも、すずろに汗あゆる心地ぞしける。若からん人は、さもえ書くまじき事のさまにやとぞおぼゆる。例いとよく書く人も、あいなく皆つつまれて、書きけがしなどしたるもあり。
☆単語・用語
おまへ:お方・お方のそば。ここでは中宮定子。
几帳(きちょう):部屋を仕切るついたて
長押(なげし):柱の上部を水平方向に繋ぐ木材
よろづ【万】(名)全てのこと。様々なこと。(副)すべて。何事につけても。
めでたし すばらしい
ことなし【事無し】用事がない、心配がない、批難することがない
古言(ふること):古い歌・文
ゆるるかなり【緩やかなり】ゆるやかに
うち【打ち】(接頭語)①少し ②勢いよく
をかし 興味深い・趣がある・美しい
おぼゆ【覚ゆ】思う・感じられる
げに【実に】本当に・実に
あらまほし【有らまほし】(連語)あることが望ましい・あってほしい(形)理想的だ
陪膳(はいぜん):天皇の食事の給仕
男(をのこ):男・男の召使い
めす【召す】お呼びになる
わたらせたまう【渡らせ給う】いらっしゃる
目は空(めはそら):他の事に気を取られて
おはします【御座します】①いらっしゃる ②おいでになる
たてまつる【奉る】(補助動詞・謙譲)~申し上げる
ほとど【殆ど】ほとんど
◆藤原伊周(これちか):中宮定子の兄。当時、権大納言。
とく【疾く】早く・急いで
上臈(じやうらう):身分の高い者。女官。
かきなす【書き成す】(わざとそうして)書く
こころばへ【心ばへ】心の様子、心遣い、趣
ゆかしがる 知りたがる・見たがる・聞きたがる
円融院(えんゆういん):定子の夫である一条天皇の父
草紙(さうし):(巻物に対して)綴じ本
殿上人(てんじゃうひと):清涼殿の殿上にのぼることを許された人
いみじ はなはだしい・激しい
すまふ【辞ふ】辞退する・断る
さらに【更に】全然(~ない)
わぶ【侘ぶ】①気落ちする ②困る
三位(さんみ)
きこゆ【聞こゆ】申し上げる
※いつも:歌は出所不明。出雲と。
めづ【愛づ】①心惹かれる ②ほめる
すずろなり【漫ろなり】①何の理由もない ②無関心な ③思いがけない ④むやみに
あゆ【落ゆ】落ちる
え~打消:~できない
れい【例】①前例 ②通例、普通、普段
あいなし ①つまらない、よくない ②わけもなく、むやみに
つつむ【慎む】気づかう。遠慮する。
かきけがす【書き汚す】①書き損じる ②書き散らす
※古文および現代語訳は、二十段の一部となります。
【原文】
◆清少納言『枕草子』(能因本)
(北村季吟『枕草子春曙抄』1674年より:早稲田大学古典籍総合データベースhttps://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_e0094/)
【参考文献】
◆鈴木弘恭訂『訂正増補 枕草子春曙抄』青山清吉、1899年
◆渡辺実校注『新日本古典文学大系25 枕草子』岩波書店、1991年
◆松尾聰・永井和子校注『日本古典文学全集11 枕草子』小学館、1974年
◆飯島裕三「『枕草子』の原態を求めて:三巻本枕草子と能因本枕草子の比較を通して」『学習院高等科紀要』7、pp.27-54、2009年
◆土屋博映「『枕草子』の「をかし」の価値」『跡見学園短期大学紀要』22、pp.1-8、1986年
◆田中倫子「枕草子「をかし」の世界 ―「あはれ」を拒否する美意識の成立 ―」『国文研究』34、pp.23-30、熊本女子大学国文談話会、1988年
◆北原保雄編『全訳古語例解辞典 コンパクト版 第三版』小学館、2001年
◆金田一春彦監修・小久保崇明編『学研全訳古語辞典 改訂第二版』学研教育出版、2014年
◆吉原栄徳『和歌の歌枕・地名大辞典』おうふう、2008年
本文は、2020年2月にニコニコ動画・Youtubeで公開した自作動画「つづみ古文 #5」の内容を文章化し投稿したものです。
2020年2月 がくまるい
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます