「葛飾北斎伝」下巻63-64頁 現代語訳・古文

○現代語訳

 お栄は父の性質に似て、つまらない義理にこだわらない。あたかも男子のようだ。とても男気を好み、清貧を好んで、粗末な着物や食べ物を恥じらわない。三食の安い肴は、毎日、売店より買ってきて、これを食う。ゆえに竹の皮が、座る場のそばに積まれている。しかし、全く気にしていないようだ。

 絵画の合間、占いをよくして、晩年は仏門に入り、念仏をとなえるのを怠らない。奇行が多い中にも、常に茯苓を服用して、女仙となろうと願い、またかつて芥子人形を製造して、これを売り、大きな利を得たことがある。これが芥子人形のはじめであるという。奇抜な女性というべきだ。


 露木氏がいうには、お栄の挙動は、北斎に似ているが、ただ北斎と異なるのは、少し酒を飲み、また煙草を吸うことである。お栄はある日、誤って北斎が描いた絹本の絵に、煙草の吸殻を落とし、自らを悔いて、以来煙草を禁ずるべきと言ったが、しばらくしてまた元通り。

 また(氏が)言うには、お栄はその容貌はとても醜く、あごが出て、とても変わった顔であった。北斎は、常に呼ぶ時に、(お栄を)アゴアゴと言った。


 また(梅彦氏が)言うには、北斎はもとより乱れ怠る人であり、室内の掃除を嫌うと言うが、お栄は翁ほど乱れ怠ってはいない。だから頭髪などは、常に乱れていたということはない。その室内の掃除をしなかったのを、曲げて北斎の意に従っていたもののようだ。

 そうして、その品行はとても正しい(ものとなった)。情夫などあることを聞いたことがない。常に翁の傍にいて、親孝行を怠らない。感心賞賛すべきことである。


○古文

 お栄父の性質に似て、小節に区々たらず。あたかも男児の如し。すこぶる任侠の風を好み、清貧をこのみて、悪衣悪食を恥とせず。三食のかぶつは、毎日、にうりみせより買い来りて、これを食う。ゆえに竹の皮、座辺にうづだかし。されどあえて意とせざるが如し。

 絵画の余、観相ぼくせんをよくし、晩年仏門に入り、唱念おこたりなし。奇行多きが中にも、常に茯苓を服して、女仙とならんことを願い、又嘗芥子人形を製造して、これを売り、巨利を得たる事あり。これ芥子人形の始なりという。奇女というべし。


 露木氏曰く、お栄の挙動、北斎翁に似たれども、唯翁とことなれるは、少しく酒を飲み、又煙草を喫すること是れなり。お栄一日あやまちて翁が画きしきぬほんの絵に、煙草の吸殻をおとし、みずから悔いて、以来煙草を禁ずべしといいけるが、暫くして又旧のごとし。

 又曰く、お栄は、其の面貌はなはだ醜く、顎いでて、すこぶる異相なりし。翁は、常に呼びて、アゴアゴといえり。


 又曰く、北斎翁は、もとより乱惰にて、室内の掃除をきらうといえども、お栄は、翁ほどの乱惰にあらず。されば頭髪などは、常に乱せしことなし。其の室内の掃除せざりしは、枉げて翁の意に従い居たるもののごとし。

 しかして其の品行は、すこぶる正し。情夫などありたることを聞かざるなり。常に翁の傍にありて、孝養怠りなし。感賞すべきことなり。


☆単語・用語

くくたり【区々たり】①まちまち、まとまりのない ②小さなことにこだわる

うずだかし【堆し】積み重なり高く盛り上がっている

あへて【敢(へ)て】①強いて ②(下に打消)全く

されば【然れば】①だから ②さて

まぐ【枉ぐ・曲ぐ】(物を)曲げる・(考えを)変える

しかして【而して・然して】そうして


小節(しょうせつ)つまらない義理

任侠(にんきょう)勧善懲悪の気風。男気。

楽む:このむ

清貧(せいひん)私欲を捨て質素であること

悪衣悪食(あくいあくしょく)粗末な着物や食物。「論語」里仁より

下物(かぶつ)安い魚・酒のつまみ

座辺(ざへん)すわっているそば。かたわら。

観相(かんそう)人相・顔による占い

卜占(ぼくせん)事柄・事件を占うこと

誦(しょう)となえる

茯苓(ぶくりょう)生薬の一種。仙人の常用食と言われる。

女仙(にょせん・じょせん)仙人の女性。仙女。・

芥子(けし)人形 木彫りの衣装人形。女児の玩具として江戸時代に流行。

情夫(じょうふ) 色男。また、夫以外の愛人や内縁の夫。

孝養(こうよう)親に孝行すること


【原文】

◆飯島半十郎『葛飾北斎伝 下巻』蓬枢閣、1893年

(国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992199)


【参考文献】

◆飯島虚心著・鈴木重三校注『葛飾北斎伝』岩波書店、1999年

◆関根金四郎『本朝浮世絵名家詳伝』萩原新陽館、1899年

◆保田一洋「北斎娘・応為栄女論 ― 北斎肉筆画の代作に関する一考察 ―」『浮世絵芸術』117、pp. 12-25、国際浮世絵学会、1997年

◆久保道徳『中国強壮生薬の話 ― 虚の概念と補虚生薬その歴史から近代科学まで』世界保健通信社、1991年

◆北原保雄編『全訳古語例解辞典 コンパクト版 第三版』小学館、2001年

◆小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006年


本文は、2019年10月にニコニコ動画・Youtubeで公開した自作動画「つづみ古文 #4」の内容を加筆修正し、2020年2月に投稿したものです。


2020年2月 がくまるい

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