「葛飾北斎伝」下巻62-63頁 現代語訳・古文
○現代語訳
三女は、名前はお栄で南沢等明に嫁ぐ。等明は、お栄を妻としたが、親密ではなく別れた。
関根氏が言うには、お栄の挙動が北斎に似ているので、その離別したのももっともではないだろうか。また、この等明は絵をたしなんで描いてきたが、お栄よりは拙い。ゆえにお栄は、常にその絵の拙い所を指して笑ったという。
お栄は実家に帰り、再び嫁がなかった。応為と号をつけ、父の仕事を助ける。最も美人画が得意で、筆意はあるいは父より優れる所がある。あの高井蘭山作の女重宝記のごとく、よく当時の風俗を写して、優れているといえるだろう。
深く考えるに、応為の名は、何に依拠するか知らない。一説に、応為は読みで「おーい」。すなわち呼ぶ声である。お栄は父と同居し、ゆえに「おーい、おーい親父どの」と言った流行歌より取ったのであろう。おそらく別に意味はない、あるいはこの(説の)とおりである。
北斎がかつて人に語るには、私の美人画はお栄に及ばないのである。彼女は素晴らしく描いて、十分に画の法則に匹敵する。
露木氏の話では、梅彦氏がかつてお栄に依頼し、稲荷神社にそなえる俳句の奉灯の挿絵を描かせたところ、お栄は承諾して盆栽の桜の陰に、子猫のたわむれる所を描く。細密に描き、説色華麗である。
同氏がお栄に言う、「奉灯の挿絵であるので、このように細密な必要はなくてよい」。お栄が言う、「この絹本は、裏打ちをする物であるので描いたのである。従来、裏打された絹本は描きがたいものであるので、普通の絵師ならば、謝って描かないであろう。私は、試みとしてその描きがたいものに描いたのである。知らず知らず細密になったけれど、他人の言うように描きがたいものではない。」
同氏は持ち帰ってじっくり見ると、気韻生動で筆の力は非凡である。よって奉灯とするのは惜しいので、あらためて他人に挿絵を描かせて神前に供え、それからこのお栄の絵は、表装して珍しいものとしてしまっておいたが、後に火災に遭いこれを失う。惜しいことに違いない、と同氏は話す。
○古文
三女、名は、阿栄、南沢等明に嫁す。等明は、(中略)阿栄を妻とせしが、睦まじからずして、離別せり。
関根氏曰く、阿栄の挙動、北斎翁に似たれば、其の離別せらるゝも、亦宣ならずや。且かの等明は、絵を嗜みて画きたれど、阿栄よりは拙し。故に阿栄は、常に其の絵の拙所を指して、笑ひしと。
阿栄家に帰りて再嫁せず。応為と号し、父の業を助く。最美人画に長じ、筆意或は父に優れる所あり。かの高井蘭山作の女重宝記のごとき、よく当時の風俗を写して、妙なりというべし。
按ずるに、応為の名、何に拠るを知らず。一説に、応為は、訓みて、オーヰ、即呼ぶ声なり。阿栄父と同居、故にオーヰ、オーヰ親父ドノといへる、大津絵節より取りたるならん。蓋し別に意味あるにあらずと、或は然らん。
北斎翁嘗人に語りて曰く、余の美人画は、阿栄におよばざるなり。彼は妙に画きて、よく画法にかなへり。
露木氏の話、梅彦氏、嘗阿栄に依頼し、稲荷社前に供する発句の奉燈の口画を画かせたるが、阿栄諾して盆栽の桜のかげに、猫児の戯るゝ所を画く。下筆細密にして、説色佳麗なり。
同氏阿栄に謂て曰く、奉燈の口画なれば、此の如く細密なるを要せずして可なるべし。阿栄曰く、此絹本は、裏打せし者なれば、画きたるなり。従来裏打せし絹本は画き難きものなれば、尋常の画工ならば、謝絶して画かざるべし。妾は、試みに其の画き難きものに画きたるなり。知らず/\、細密になりたれど、他人のいふごとく、画き難きものにあらずと。
同氏携へ帰りて、熟視すれば、気韻生動、筆力非凡なり。よりて奉燈となすは、おしければ、更に他人をして、口画を画かしめ、神前に供し、しかして此の阿栄の画は、表装して珍蔵せしが、後火災に罹り、これを失ふ、惜むべしと、同氏の話。
☆単語・用語
かす【嫁す】嫁に行く・とつぐ
うべなり【宣なり】もっともである
かつ【且(つ)】(接続助詞)また
なり【業】職業・生業(生計を立てている仕事)
めうなり【妙〈ミョウ〉なり】①非常に優れている ②奇妙な
あんず【安ず・按ず】①深く考える ②心配する
すなはち【即(ち)】(接続助詞)つまり
けだし【蓋し】おそらく・もしかしたら
あるは【或は】(あり+は)①ある時は、ある場合は ②あるいは・または
しかり【然り】(ラ変動詞)そうである・そのとおりである
かつて【嘗(て)】①(打消を伴い)まったく ②かつて・以前に
かなう【適う】(主に否定を伴い)匹敵する・かなう(敵う)
きようす【供す】①(神仏に)そなえる ②差し上げる
【原文】
◆飯島半十郎『葛飾北斎伝 下巻』蓬枢閣、1893年
(国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992199)
【参考文献】
◆飯島虚心著・鈴木重三校注『葛飾北斎伝』岩波書店、1999年
◆保田一洋「北斎娘・応為栄女論 ― 北斎肉筆画の代作に関する一考察 ―」『浮世絵芸術』117、pp. 12-25、国際浮世絵学会、1997年
◆北原保雄編『全訳古語例解辞典 コンパクト版 第三版』小学館、2001年
◆戸川芳郎監修・佐藤進・濱口富士雄編『全訳・漢辞海 第三版』三省堂、2011年
◆小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006年
本文は、2019年9月にニコニコ動画・Youtubeで公開した自作動画「つづみ古文 #3」の内容を加筆修正し、2020年2月に投稿したものです。
2020年2月 がくまるい
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