第27話 『おくのほそ道』結びの地、古き大垣と新しき大垣の結実:『聲の形』2

 『聲の形』の物語の舞台になっているのは、虚構の都市<水門市>で、そのモデルになっているのが、岐阜県の大垣市である。実際、市内の実在の場所が数多く背景として描かれている。

 大垣市が物語の舞台のモデルになっているのは、作者である大今良時氏が大垣市出身で、現在も大垣在住であることが、大きな理由になっているだろう。

 そして、『水都旅(すいとりっぷ)』という大垣市観光協会が運営しているサイトでは、『聲の形』の特集を組み、市内の何処が物語の舞台になっているかについて、具体的な場所を小見出しにし、参照すべき巻数とページ付きで、コミックから抜粋したカットと、実際の場所の写真を並べ置き、さらに、地図で場所を示す事によって、より詳細な情報を、閲覧者に提供している。

 さらに、大垣駅前の<駅通り>に面した建物では、市のPRアニメである『おあむ物語』のパネルと共に、『聲の形』のパネルも置かれている。こうした事から、大垣市が、地方創生の一環として、『聲の形』を<おし>ている事は明らかであろう。

 その、ガラス越しに見ることができる『聲の形』のパネルは、コミックの第二巻のカヴァーイラストを拡大したもので、物語のキースポットである<美登鯉橋>を背景に、左に将也、右に硝子が並んでいる。

 実は、このパネルは、<美登鯉橋>に近接している<奥の細道むすびの地記念館>の入り口にも設置されている。この名称が直接的に示しているように、大垣といえば、松尾芭蕉のおくのほそ道の終着地であり、それ故に、二〇一二年の四月八日に大垣市に、この<奥の細道むすびの地記念館>が開館した次第なのである。

  

 松尾芭蕉は、弟子の河合曽良を伴って、元禄二(一六八九)年の三月二十七日に、江戸の深川を出発し、百五十日かけて、奥州および北陸を巡り、距離にして二千四百キロメートルを踏破し、八月二十一日に、最終目的地の大垣に到着したのだった。

 この芭蕉の生涯で最長の旅の中で、弟子の曽良は体調を崩してしまい、旅から離脱せざりを得なくなってしまった。そのため、途中から芭蕉は独りで旅しなければならなくなったのだった。芭蕉にとって、体力的にも、そして精神的にも、<おくのほそ道>が、彼にとって厳しい旅であった事は想像に難くない。

 さて、芭蕉の旅の目的の一つとは、<歌枕>の地を実際にその目で見ることであった。すなわち、西行などが古い和歌において詠んでいた名所や旧跡の、いわゆる<舞台探訪>が芭蕉の目的の一つだったのである。

 そして、もう一つの目的が、旅の中での出会いや、俳諧を通じて知り合い、奥州や北陸に住んでいる旧友との再会だったのである。

 実は、芭蕉は、出発前から、大垣を旅の終着地にすることを決めていたらしい。というのも、大垣とは、江戸以外で、<蕉風>、すなわち、芭蕉によって主導された蕉門の俳風が初めて花開いた地で、したがって、ここには、芭蕉の旧友や弟子が数多く在住していたからで、まさしく、大垣においてこそ、数多くに旧友との再会を果たすことができるからであった。

 さて、その旅程の中で、芭蕉が認識を深めた俳諧における本質的概念こそが<不易流行>であった。

 松尾芭蕉は、おくのほそ道の旅を通して、この<不易流行>についての認識を深めたという。そして、元禄二年の冬、<蕉門十哲>の一人、向井去来などの門人たちに、この概念を説き始めたそうだ。

 去来は、松尾芭蕉から伝え聞いたことなどをまとめた俳諧論書『去来抄』に中で次のように述べている。


 芭蕉の俳諧には、千歳不易の句と一時流行の句とがある。先師芭蕉は、これをこのように二つにわけて教えられたが、その根本は一つのものである。

 「不易」を心得なければ、俳諧の基本となるものが確立しないし、「流行」を心得なければ、俳風が時とともに新しくならない。「不易」というものは新しい時代においてもすぐれており、後代になってもやはりすばらしいので、これを「千歳不易」という。「流行」というのは、その時その時に応じて俳風が変化することであり、昨日の俳風が今日はよくなくなり、今日の俳風が明日には通用しなくなることがあるので、これを「一時流行」という。つまり、流行とは一時的にはやることをいうのである。


 この言説を、もっとかみ砕いて考えてみるのならば、<不易>とは変わらないもの、<流行>とは変化するもののことではなかろうか。そして、<不易>だけでも、<流行>だけでも不十分で、すなわち、<不易>を目指しつつ、<流行>を追求し、そのどちらも兼ね備えていることこそが、つまり、<不易流行>なのである。いわば、古いもの、変わらないものと新しいもの、変わりゆくものを結び付いていることで、別の言い方をするならば、<温故知新>のことであろう。


 『聲の形』は、大垣市をモデルにした「水門市」を舞台にしている。大垣は、おくのほそ道の結びの地ということもあり、記念館のみならず、市内の至る所に、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で詠んだ句の碑文が置かれている。すなわち、大垣市は、これまでずっと伝統的に、松尾芭蕉を軸にして観光PRを展開してきたのである。

 それにもかかわらず、だ。

 『聲の形』の中では、松尾芭蕉を感じさせるようなものは、物語内容面においても、舞台背景面においても全く存在していないのだ。しかも、『聲の形』の中で、最重要な場所である「すいもんばし」のモデルになった<美登鯉橋>が、芭蕉記念館のすぐ近くに存在しているにもかかわらずだ。

 再確認になるが、記念館の開設が二〇一二年、『聲の形』の連載開始が二〇一三年なので、物語制作の前に記念館はもはや存在していた。

 それでは、『聲の形』では、いわば、大垣市の伝統である松尾芭蕉のことは、完全に棚置きされているのであろうか?

 ここで、『聲の形』の物語内容に立ち戻ってみたい。

 何度も繰り返し、単行本全七巻を読み、アニメを繰り返し観てみると、小学生時代の過去篇と、高校時代の現在篇から構成されてる物語の中で、作中人物のほどんどが、過去を悔やんで、<自分を変えよう>ともがき苦しみ、<自分を変えたい>と願っているのだ。その典型的が、第五十一~五十四話(アニメ:1h48-55mの七分 )」にかけての、クライマックスと言ってもよい「すいもんばし」を舞台にしたエピソードで、ここで、主人公の硝子は、自分が変わろうとしなかったから、周囲の人間を傷つけてしまったことを嘆いているのだ。

 そして、第七巻のエピローグの中では、硝子の無変化、<変わらなさ>について指摘されているシーンもある。


 隠井は、大垣市を訪れた際に、市内で、『聲の形』の舞台を巡って、新しき大垣を確認してゆき、その締めとして<美登鯉橋>を訪れた後で、その足で、<奥の細道むすびの地記念館>を訪れ、古き大垣もまた体験しようと欲した。

 そして、館内のミニシアターで、芭蕉に関する動画を観ていた際に、3Dによって、目の前に「不易流行」という文字が飛び込んできた時に、脳に電気が走った。

 もしかして、『聲の形』のテーマ、作中人物の<変わりたい気持ち>、<変わらない気持ち>って、松尾芭蕉が、<おくのほそ道>の中でたどり着いた、<不易>と<流行>に相通じるものがあるのではなかろうか。

 このように考えると、たしかに、大垣の<流行>である『聲の形』には、表面上、大垣の<不易>である松尾芭蕉の痕跡は確認できないのだが、しかし、物語テーマの中に、<不易流行>の概念が織り込まれており、『聲の形』は、大垣においてしか生まれ得なかった物語であるように、隠井には思えてきたのであった。


<参考資料>

<書籍>

大今良時,『聲の形』全七巻(全六十二話),講談社コミックスマガジン,東京:講談社,二〇一三年~二〇一四年.

向井去来,「去来抄」,『去来抄/三冊子/旅寝論』所収,東京:岩波書店,一九九一年.

「不易流行とは何か」;「『不易』の句、『流行』の句」,堀切実『芭蕉たちの俳句談義』,東京;三省堂,二〇一一年,一七三~一七四;一七六頁.

<劇場版アニメ>

『聲の形』,制作:京都アニメーション,上映時間:一二九分,二〇一六年九月十七日公開.

<WEB>

「聲の形の舞台紹介 in 西美濃」,『大垣地域ポータルサイト 西美濃』,グレートインフォメーションネットワーク株式会社,二〇二〇年十月七日閲覧.

「聲の形 舞台ガイド」,『水都旅(すいとりっぷ)大垣・西美濃観光ポータル』,大垣観光協会,二〇二〇年十月七日閲覧.

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