第一幕 一抹の記憶
#1
人には、他人には言えない暗い過去のひとつやふたつくらいある。そんなことくらい理解している。
しかし、職業柄そういうことをほくじり返して相手を追い詰めることが、時たまある。それを拷問だという輩もたまにいる。
確かに当事者には、部外者に触れられたくはないデリケートな部分だ。それでも容赦はしないけど。
こんなことばかり長く続けていると、周りからは【鬼捜査官】だの【血も涙もない】と言われる始末だ。真面目に服務に従事しているだけだというのに。最近では目が合うだけで相手が戦慄しているのがわかってしまう。
19世紀に入ると、英国は多くの犠牲を出した惨たらしい血の歴史を乗り越え、以前より穏やかな街並みを見せるようになった。活気ある街の中心部には、笑顔に満ちた人々で溢れる。この国が当たり前の平和を手にしたのも、この100年以内のことだ。
この街の穏やかな風景が、これからも当たり前にあることを誰もが疑わなかった。
今はまだ、誰もがこの生活を当たり前のように過ごしていた。
中心部から少し外れた、人気のまばらな歩道の上で、二人の警官が進路を塞ぐように背を向けている。
邪魔だな、と進路を阻むそいつらに口を挟んでいた。
「どうしたんだ」
「アルフレド様!」
警官二人が人の顔を見るなり、マニュアルかのように敬礼して人の顔色を窺ってくる。この手のことは日常茶飯事で、うんざりすることにも慣れてしまっていた。
彼らのもとまで足を進めると、そこには薄汚れた格好の孤児らしき少年二人の姿がある。そして彼らの前に立ち塞がるようにもう一人の女の姿。
どうした状況だろうか、これは。
「実はこの薄汚い孤児共が私の目を盗んで財布をスリやがって、少し教育をしてやろうと思っていたところです。アルフレド様もこの低俗に何か言ってやってください」
「ふうん」
二人の警官の間で青ざめている子供二人に目線を配るが、遮るように女の声が言った。
「おやめください」
それを力強く言い放つと息を切らして、怯える二人の少年を背中に隠すと、彼らを庇うように自身の胸の前に手を組んだ。
「どうか、お許しください。この子達は身寄りもなく、路頭に迷いお腹を空かせていたのです。どうかご慈悲を」
高値のつく宝石の輝きのように澄んだその女の視線が、弱い立場にある子供を必死に守ろうとしていた。
その女は使い古したボロボロの籠を提げ、黒いベールを頭に被り、漆黒の修道服を身につけている。
一目彼女を見て、目を奪われた。
「なんだこの女……教会のシスターか。シスター様のお言葉だろうが見逃すわけにはいかんなあ」
カトリック教会のシスターは、神であるキリストに仕えている。彼らは神に近い存在だ。キリシタンの多いこの国では、教会の者達の信頼は特に厚い。社会の秩序であるロンドン警視庁でさえ、教会に対しては不干渉の領域だ。迂闊に口を挟むことはできないとされている。
しかし、怒りが収まらない警官は冷静を欠いてそのシスターにあろうことか暴言を吐き、頭を下げる彼女に執拗な言葉を浴びせている。
気性の荒いこの警官に追い詰められるシスターを見ていられず、顔色を暗くする彼女にひとつ確認した。
「君、あの丘の教会のシスターかい?」
「はい。そうでございます」
顔を上げた彼女が、エメラルドの瞳を向けてこちらを見る。宝石の光沢のような眼差しに、魂を吸い込まれそうだ。そんな錯覚を憶えるように、僕は目を細める。
「そうか。今回のことは大目に見てあげよう。彼らのように路頭に迷う孤児の問題は、この国で真摯に取り組むべき課題だからね」
「しかし、アルフレド様……」
「君は僕の意見に文句があるのかい」
その警官は喉につっかえた唾を飲み込み、渋々と頷いた。
大体この子供にスられたのも君の油断が招いたことだと、その警官を叱りつけることもできたが、この場ではとどめておいた。彼女達の前で話すことじゃない。
不満そうにしていた彼らを追い返してやったところで、ちらりと彼女と子供二人に視線を向ける。路頭に迷う彼らを、彼女はそのまま丘の上にある教会まで連れていくようだ。
彼らと話をつけると、シスターはすかさずこちらに視線を寄越す。何かとじっと様子を見ると、籠に入れていたものを取り出し、僕の手を取ると温もりのある手でそれを渡した。
「ありがとうございます。ほんのお礼ですが、どうぞ」
そうにっこりと微笑んで、子供騙しの砂糖菓子を受け取った。別にお礼など期待していないけど、少し心外だ。
悪気のない彼女に対して、冷たい視線を返してやった。
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