一章 テキトウ家の日常


 朝が始まる。私は母に連れられ幼稚園へ向かう。途中いろんな人と出会う。小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、お婆ちゃん……。

 出会う人と挨拶をする。みんないい人で、私を可愛がってくれる。それは幼稚園でも同じで、いつも楽しく一日が終わる。そして、また朝が来る。きっと明日の朝が……。


 今日も朝という戦いが始まる。私は急いで職場に向かう。途中、幼稚園に通う親子を見た。凄く可愛い女の子! この親子と挨拶をして、ちょっとした会話をすることが私の元気の秘密。

 もちろん、他の近所の方々との会話からも元気をもらっている。

 最近、その近所に少し気になる娘がいる。

 それは今年中学生になった女の子。小学生の頃は元気よく学校に向かっていたが、最近は少し元気がなく、その姿を見ると少し心配。彼女は大丈夫だろうか? と気になっている。

 彼女とは近所で少し付き合いがあるくらいで、20歳を越え年齢も離れた私が、あの子の心配をするのは余計なお世話かもしれないけど、私もあの子の気持ちが、ほんの少しわかる気がした。

 新しい環境というのは、私にとって凄く怖い。

 特に、小学生から中学生になる時は、その不安と初めて向き合う時だから。

 小学生になった時は、そこまで物心がハッキリしていないけど、その6年間で不安をしっかり感じるほど人は成長する。そして、直面する最初の大きな環境の変化という恐怖。私もやっぱり怖かったし、今も正直怖い。

 私があの子の力になれるか、わからないけど、きっと何かできることがあるかもしれない。少し考えてみる……。

 そうだ、明日、あの子が好きなお菓子を持っていってみようかな? 好きなものを食べれば、少しは気分が軽くなるかもしれない。だから、明日の朝に……。


 また朝がきた。

 私は中学校に向かう。最近、悲しいことがあった。大好きだった親戚のお婆ちゃんが亡くなってしまった。

 小学校の頃はよく遊びに行っていたが、最近はあまり顔を合わせていなかった。突然のことで、こんなことなら、もっと日頃から会いに行けばよかった、と後悔の日々。

 さらに、辛いことは重なるもので、私は今、中学生という生活に上手く馴染めず、徐々に学校に行くのが怖くなっている。

 仲がよかった数少ない友達とは、別の学校になってしまって、毎日着る制服が小学生とは違う重圧を与える。

 こんな重圧は初めて。何も考えず、楽しく過ごしていた6年間とは違う。勉強の内容などより、学校の雰囲気が明らかに小学生の時とは違う。その変化に私は上手く対応できず、沈んでいる。今日も沈んだ気持ちで、中学生としての一日が終わる。

 このまま私は一人、沈んでいくのだろうか……。

 でも、それもいいのかもしれない、と考えながら帰宅し、部屋で悩んでいると呼び鈴が鳴る。玄関に向かうと、そこには近所の美人なお姉さんがいた。私の好きなお菓子を持って。

 それから、そのお菓子を二人で食べながら、私の悩みを聞いてもらった。お姉さんも環境の変化には、今も上手く対応できない、と話すが、とても信じられたなかった。

 毎朝、すれ違うお姉さんの姿は、素敵なレディにしか見えなかったから、意外な事実だった。

 でも、お姉さんが嘘をついている、とも思えなかった。

 だから、きっとそうだと思い。馴染めないのは私だけではないんだ、と思えた。

 それから、お婆ちゃんのことも話して、その辛さも受け止めてもらった。悩みを聞いてもらえただけで、私の心にかかっていた重い雲は晴れていく。それだけでも十分だったのに、お姉さんは素敵な言葉を私にくれた。

「毎日の一瞬がいつも大切な瞬間。きっと、それをお婆ちゃんが教えてくれたんじゃないかな? 今の生活で感じることも、きっと大切だったと思える瞬間がくるよ。だから、無理しないで、できることを精一杯して、その瞬間を待ってみようよ! ……って、それが難しいんだよね。私もそうだけど……。でも、きっと大丈夫だから!」

 お姉さんに言われて、私もそうだと思えた。きっと、いつかこの中学生の時代が楽しかった、と思える瞬間が来る。初めは辛かった小学生の生活も、今では楽しかったと思える。

 そう思える瞬間を迎えられるように、私にできることをしようと決めた。学校に行くのはもちろんだけど、明日近所のお婆ちゃんの様子を見に行こう。会えるその瞬間を大切にしないと、きっと後悔するから。


 朝が来たようだ。

 私は一日が始まる朝の瞬間が大好きだ。

 特に最近は、朝の瞬間に『生きている』という事実を強く実感する。新しい朝が来ることは、今の私にとって新しい世界がくるのと同じ。その新しい世界が動きだす時間、様々な人達が自分達の世界へ出発していく様子を眺めるのが好きだ。

 幼稚園に向かう親子、仕事へ向かうレディ、学問の道を進むお嬢さん。お嬢さんを見ると昔のことを思い出す。旦那さんと出会い、楽しい時間を過ごした日々を。

 そんな思い出に浸っていると、近所の中学生の女の子がやってきた。回覧板と私の好きなお菓子を持って。とても親切な子だ。少し昔の私に似ているような気がする。そんな彼女を見て、自分の孫の姿が思い浮かんだ。元気にしているだろうか。きっと毎日、いろんな事があって大変だろうけど、その毎日の一瞬が大切な瞬間。それがわかれば、どんな明日の朝でも迎えられるはず……。


 今日も陽が昇り、朝が来た。

 私は大学へ向かう。途中でいろんな方々と出会う。私にとって、この時間は大切な学びの時。自分のこれまでを振り返ったりする瞬間。

 特に、近所に住む小学生の女の子を見ると、昔の自分と重なって見える時がある。大人しく、なかなか同級生と馴染めず、そんな自分が嫌いだった時期。

 だけど、今思えば、そんな自分も素敵だと、思える私がいる。どこでそう思えたのかは忘れたけど、その大人しく幼い私がいたから、今の私がいる。

 だから、いつかどんな自分でも「素晴らしい」と誇れる自分になれるといいよね、と心の中であの子に言っている。

 本当は、それを直接言ってあげられたらいいのだろうけど、あの子の気持ちになると……。あれ、私もまだ引っ込み思案なのかな? 少し考え、明日あの子が大好きなお菓子を持って行ってみようと思う。

 突然、時々会うだけの大学生の私が訪ねて来たら変かもしれないけど、どうしても昔の自分みたいでほっとけないから……。これは事案かしら? でも、とりあえず明日の朝……。


 朝が来てしまった。

 今日も学校へ行かないといけない。

 小学生の私にとって、この朝の時間はとても辛い。あまり同級生と馴染めず、学校にいても辛い。

 それでも学校へ向かう。途中、幼稚園に向かう親子を見て、私もあの頃に戻れたら、と思ったりする。まだ小学生だけど。

 それか早く中学生なりたい! と近所の中学生のお姉さんを見て思ったり、活き活きとしている社会人のレディもいい! のんびりお婆さんもいい! と思ったり。

 だけど、一番の憧れは女子高生のお姉さん! 凄くクールでかっこよくて、何より今の私よりも凄く元気で明るい。なんでも完璧なお姉さん。私も早くそうなりたい……と思いながら学校へ行き、一日中そのことを考えていた。同級生と馴染めない私は、いつもなりたい将来の自分を想像することを楽しみにしている。

 学校が終わり、家に帰って好きなことをしていると、誰かきた。お母さんが呼んでいるので玄関へ向かうと、そこには大学へ通う美しいお嬢さんがいた。それも私が好きなお菓子を持って!

 私、このお嬢さんにもなりたい!

 明日は、大学生のお嬢さんや完璧な女子高生のお姉さんになれるかな? きっと明日の朝なら……。

 

 朝、か……。今日も一日が始まってしまう。

 だけど、やらなくてはいけないことが山積みで、全く何もできていない高校生の私。

 大学進学か、就職か? そもそも、私がやりたいことって何? 逆に、どんなことなら私にもできる? そんなことを考える私にできることは、精一杯元気そうに日々を過ごすだけ。

 近所の大学に通うお嬢さんを見て素敵だな、と思ったり、活き活きと職場に向かうレディを見ても素敵だと思ったり。

 しかし、自分がそういう風にできるか、と言えば凄く疑問だ。とても自分が信じられない。それでも、決断の日が容赦なく迫ってくる。

 そこから逃れたいのか、近所の中学生を見てはあの頃に戻りたい、幼稚園生を見てはあの頃にも戻りたい。だけど、一番戻りたいのは小学生の時代かもしれない。

 近所にいる小学生の女の子を見ては、「小学校の6年間は最高に楽しいよ!」と教えてあげたくなる。

 でも、この考えは少し誤りがある。本当はどの瞬間も最高に楽しいはずなのだ。それが今、できていない私には、何か自分では気づいていない問題点がある。私は完璧とは程遠い。

 明日の朝には、その問題点に気づけたらいい、と願う日々。

 本当は問題点がないことが問題なのかもしれないけど、何かが満たされない。私が忘れてしまった何か、失ってしまった何か、大切なことを忘れ、失った深い喪失感。その気持ちが満たされる明日があれば、それだけでいい。そういう明日の朝はいつくるのかな?


 朝なのだろうか?

 今、意識が戻ったけど、景色が見えず何時かもわからない。

 私は薄暗い部屋の机で寝ていたようだ。辺りには無数の本棚と本。

 ここはどこだろうか? そして、私は誰? 

 私はどうやら物語の旅路から逸れ、知らない世界に来てしまったようだ。しばらく、この未知の世界を彷徨ってみようと考えている。

 きっと、そうすれば探しモノのが見つかる気がする。


 

 『テキトウ家の日常』という本はここで終わっていた。

 誰もいない書斎で私は疑問と向き合う。これはいったいどんな物語? そんな疑問だ。そこに答えはない。答えなどあるはずもない。

 その事実に戸惑い、迷った。書斎に囚われ、惑迷(わくめい)という樹海を彷徨う私の前に影が近づく。その姿を確認しようとすと、そこにはスーツを着て二本足で立つ山羊さんの姿があった。そう、随分眠たそうな目をした山羊さんだ。

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