第17話 久しぶりの食事

 叫んだ時には、あかりはボストンバッグを掴んでもう走りだしていた。

 タケルも、その後を追って走りだす。できることならもう一度、あいつを捕まえたい。ハクがイカレた男の行動を止めた後で、あかりの寿命を取り戻した後で。そんなことを思いながら走っていた。

 だが、一度つかまったことで警戒しているであろうハクを、もう一度捕まえて封じるなんてことできるのだろうか。

 無理に決まってる、と呟くもう一人の自分の声を聞こえないふりをして懸命に走る。

 あかりに追いつき、追い越してゆく。

 必死で走るのだが、思うように足が動かず、もどかしい。


――間に合うだろうか? ハクは、あの男を捕らえただろうか? もう、喰らっているのだろうか?


 ゾクリとする。

 犯罪は未然に防げたとしても、あの男は無事では済まないだろうから。

 二人は、駅前の通りに走り出て、アーケードを目指す。

 ハクと男の姿を一心に探すが、見当たらない。


「神崎くん! こっち!」


 あかりが、途中の細い路地を指さした。勢いで通り過ぎてしまったタケルは、つんのめりながら方向を変えて、路地を覗きこむ。

 ずっと奥の方で、ぼうっと白いもやもやしたものが仄かに光っていた。二人はそっと頷き合う。

 肩で息をしながら、タケルはゆっくりと足を踏み入れた。


 倒れた人間の足が見える。

 その上に、白い靄が渦巻いている。

 靄の中に人型のモノ見える。それは倒れた人間に覆いかぶさり、腹に頭を突っ込んでいた……。


 ベチャ、ベチャリ……ズズズズズ。


 すすり上げる、嫌な音。

 確かめなければと思うのに、タケルは足が竦んで動けなくなってしまった。おぞましさに、吐き気がしていた。

 大きな白い人影が立ち上がり、背を丸めたままゆっくりとこちらに振り返る。バサリと垂れた髪に覆れていた顔が、徐々に上がってこちらを向く。

 人間の大人のサイズ、それもかなり長身な姿になったハクだった。髪と顔がドロリとした粘液のようなもので、ぬらぬらと光っている。

 ギラリと赤い目を光らせ、ニタリと笑う。


 もう、喰ったのだ。

 ハクの足元に倒れている男は、枯枝のように干からびていた。確か三十代くらいだったはずなのに、まるで数百年生きた老人のようだ。服装が同じでなかったら、誰だかわからなかっただろう。


「……殺したのか?」


 タケルの声は掠れていた。言わずもがな、あの状態で男が生きているはずもない。まるでミイラのようだった。

 キヒヒヒという嘲笑がその答えだ。背を丸め両手をブラブラと揺らして、ハクが近づいてくる。異様な程白目の多い赤い三白眼が、二人を捕らえて離さない。

 あかりがタケルの腕にしがみついて来た。震えている。


「悪果だけじゃない……。木も全部、根こそぎ、すべて食べてしまったのよ……」


 男に巻き付いてがんじがらめにしていた、あの絞め殺しの木は消えてしまっていた。食べ散らかされた枝葉のようなものが、あたりに散らばっているだけだった。

 木は心。精神の在り様が身体に少なからず影響を与えるのは当然としても、微塵も残さず心を喰われてしまうと、肉体までも衰え滅びてしまうのかと、タケルは愕然とするのだった。


「……美味かった。実に、美味かった。思う存分喰ってやった。……ほぉら、惨事は起こらなかった、大量殺人は行われなかった。喜べよ。俺がちゃんと防いでやったろう?」


 唇をベロリと舐めあげ、ハクは恍惚とした表情を浮かべている。フラフラと体を揺らしながら、なおもこちらに近づいてくる。

 ハクが一歩進むごとに、タケルたちは一歩下がる。先ほどまでとはまるで違う、底冷えするような強烈な圧を放っていて、とても受け止められるものではなかった。


「久しぶりに喰った……。やっと、俺の力、戻ってきた……」


 丸まった背中が、ボコボコと蠢きはじめた。ハクが背中を動かしているというより、背中の中に何か別の生き物がいて、外にでようともがいているように見えた。

 息を呑むタケルの腕をあかりがギュッと握る。

 ハクの背中の蠢きはだんだん激しくなり、大きなこぶがぼこりぼこりと盛り上がってゆき、次の瞬間皮膚を貫いて大きな翼が広がった。

 うっと喘ぐ声がハクの唇からこぼれ、翼が痙攣するようにブルブルと震える。


「ああっ!」


 歓喜の声を上げ、勢いよくバッと両手を広げ空を仰ぐと、白い羽がはらはらと舞った。路地裏に真っ直ぐに差し込んでくる細い光の線に照らされ、翼がキラキラと煌いていた。

 純白のその姿は天使さながらなのに、その実態は魔物でしかない。見た目が美しいだけに、更に恐ろしいとタケルは思う。あかりをハクから少しでも遠ざけるために、背後へと押した。その手は震えてはいたが。


 ハクがゆっくりと片手をタケルに向けた。逃げようと、服をひっぱるあかりに促されて後退りと始めた時、ハクの手のひらが光った。


 タケルの体は吹き飛ばされていた。

 腹に強い衝撃を受けたと感じた次の瞬間には、頭を壁にイヤと言うほどぶつけていた。

 急速にタケルの意識が遠のいてゆく。ずるずると沈み込むように尻をつき、ガクリと項垂れた。


 ハクは唇の端で笑ってから、あかりを見つめた。そしてゆっくりと歩いてくる。


「やめて。神崎くんに手出ししないで!」


 あかりは、両手を広げて立ちふさがり叫んだ。

 絶対にタケルを食わせるわけにはいかない、こんなことになったのは自分のせいだ、そう思っていた。

 自分が今までずっとハクを野放しにしていたせいなのだと。

 一番起こって欲しくないことを、自分で引き起こしてしまったのだと。

 それ以上近づくんじゃんない、と無言の威嚇をしていると、ハクの歩みが止まった。


「あかり。お前はもう、俺を必要としないのか?」


 ハクは薄ら笑いを消し、真面目な顔で言った。

 意外そうな、または悲しそうな表情にも映る、そんな顔だった。


「ええ」

「俺なら楽にしてあげられるのに……今までそうしてきたのに」

「やめて!」


 あかりはブンブンと頭を振る。

 するとハクは肩をすくめて、呆れたように笑った。あたりを支配していた緊張した空気が一気に緩んでいた。


「まあ、いいだろう。お前がそんなに言うならコイツから手を引いてもいい。俺はさ、これでも人間好きなんだ。知ってるだろ? お前のことも気に入っている。……だから、これ以上……俺を怒らせるな」


 そして翼を大きく羽ばたかせ、空に舞い上がり霧のように姿を消した。

 ハクの羽ばたきの風が、干からびた男の体を無数の塵に変え、路地の隅々に葬った。


 あかりは唇を噛んだ。

 タケルを、悪果を喰われた自分のようにしたくなかった。まして、こんな塵になんて絶対にしたくない。

 これまで、ハクを憎いと思ったことはない。怖いとも思わなかった。

 自分の悪果を喰いたければ喰えばいいと、委ね続けてきた。無言で奨励していたのかもしれない。

 いつも腹を空かせていたハクは、あかりの心に小さな悪果が実る度に熟すのを待ちもせず、すぐさま喰らいついた。


 何年もそれは続いた。そうするうちに、悲しみや苦しみ、恐怖も感じることが無くなっていった。いつしか心の木は成長を止め、あかりを蝕むこともなくなった。

 なぜ、全て喰らい尽くさないのだろうと不思議に思った。全く抵抗していないというのに。

 しかし、次第にそんな疑問も抱かなくなっていった。何もかもどうでもよくなっていったのだった。いつ喰われ尽くされても構わないと思っていた。


 だがある日を境に、あかりのその考えが急に変わってしまった。今年、桜の花咲く頃、一人の少年を見た時に。

 あかりは彼を見て眩しいと思った。たまたま見かけただけで、言葉を交わした訳でも無いのに、なぜだか涙が零れそうになった。

 この時、彼が何を思っていたのかなんて分からない。でもあかりには、誰よりも輝いて見えたのだ。とても悔し気に悲し気に唇を噛みながらも、懸命に足掻きながら前に進もうとしているように。

 名前も知らない初めて見る少年に、心を強く揺さぶられていた。そして、素直にもっと生きていたい、そう思ったのだ。

 その少年がタケルだった。

 あかりにとって、タケルは生きることの象徴だった。

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