第16話 迷いと決断
ハクは苦し気に顔を歪めながらも、いやらしく笑っていた。
自分があの男を誘導していると言っておきながら、止めてやろうかなどと、こちらを惑わすようなこと言って嗤うのだ。
何を企んでいるのか、ふざけるなと、タケルの胸に怒りが湧いてくるのだった。
「……なんだと? お前がそそのかしたくせに、何を!」
「ヒヒ……お前らには止められない。だから俺が
――この外道! 何が助けてやるだ。何が万事解決だ!
タケルは拳を握りしめて、ハクをにらむ。胸糞悪い話だと、ギリギリと奥歯を噛んだ。やはりこの魔物の言う事は信用ならない。
「ああ、あいつの悪果は実に素晴らしい。実におぞましくて……美味そうだ。お前たちにとっては災いの種が消える、俺は至上の美味が味わえる……。win-winだと思わないか」
コイツは自分の欲望を満たそうとしているだけではないかと、苦々しく思う。
「この鎖を解けよ」
ハクはタケルに命令した。
これがハクの目的だった。鎖を解かせる為に、あの男を利用しているのだ。それだけではない。不特定多数の人間の命も、駆け引きに道具にしている。
囚われていてもなお狡猾な、この真っ白な自称妖精のいやらしい笑みに、勝ち目が見いだせずタケルはギリギリと歯を鳴らし続けていた。
「さあ、解け。……あかりをもっと生かせたいんだろう?」
タケルの目を真っ赤な瞳が
封じてしまったら、あかりを寿命を取り戻すどころか二度と元に戻せないかもしれないと、ハクは巧妙にタケルに不安を抱かせる。その反面、戻せるとは決して言わない。期待してしまう心をくすぐるばかりだ。
やはり悪魔の取引だ。
「ダメよ。外さないわ」
きっぱりと拒絶するのは、やはりあかりだった。
「……いいぜ。それなら、今これから起こる惨劇は、ぜーんぶお前らの責任ってことだ。止められるものを、故意に止めなかったんだからな。お前らが殺すんだ。大勢の善良な市民を、お前らが殺すんだ」
一方のタケルの心はぐらぐらと揺れている。あかりのことも、あの男のことも、自分には何一つ解決できないのだから。
悔しいが、ハクにしか止められないのではと思ってしまう。思う壺にハマっていると知りながらも、他にどうすれば良いのかもわからず、フラフラとハクに近づいていった。
自分たちがどう決断するかで、惨劇が起こるか回避されるかが決まるなんて、酷い話だ。惨劇回避は、すなわちハクを野放しにすることであり、あの男が喰われるということなのに。
今ここで、ハクの心臓に銀のフォークを突き立てたら死ぬだろうか。ハクが死ねばあの男の呪縛は解かれて、大人しく家に帰るだろうか。帰らなかったらどうする? そもそもあの男は初めから正気じゃなかったのに。
誰が止める? 警察を呼ぶ? 間に合うのか?
ハクが死んだら、あかりの寿命も戻せなくなりはしないか……。
「神崎くん! 惑わされないで!」
悪魔の常套手段、本当にその通りだと思った。
タケルはハクを睨みながら、重い口を開いた。
「瀧本……外そう」
「神崎くん!!」
あかりの声は悲鳴のようだった。
「ダメよ! 解放してはダメ! 神埼くんも襲われるわ!」
あかりは、懸命にタケルの両腕を掴んで揺さぶった。
自分のことはお構いなしなくせ人のことは心配するなんて、と少し恨みがましく思う。自分のことにもこのくらい必死になればいいのにと。
「でも……あの男をアーケードに行かせちゃいけない。俺たちには、あの男を止められないんだし……」
タケルは、あかりの目を真っ直ぐに見つめ、そしてすぐに目を伏せた。
自らが生み出した不気味な木にグルグルと巻き付かれ、おぞましい姿に成り果てたあの男に、太刀打ち出来るとは思えなかった。彼が起こそうとしている凶行を止めるには、ハクの提案しかないだろう。
「……わかってるの?」
「…………」
「あの男の人……多分、死ぬわよ」
あかりがつぶやくとケッケッケとハクが笑った。朦朧としてくるのを必死で持ちこたえようとしているのか、目の焦点はもうあっていなかった。
「……は、外すんだろう? 早くしろよ」
あかりはこれまでよりも激しくハクを睨みつけた。
「今、私達は命を天秤にかけようとしているのよ。不特定多数の人間とあの男の人。頭のおかしな人間なら死んでもいい? 多くの命の為なら一人を犠牲にしてもいい? 私には解らない。ただ、ハクを解放したって何も解決しないってことだけは解るわ」
「……じゃあ、お前はこのまま放っておけばいいっていうのか」
「解らないの……どうしたら良いかなんて、解らないのよ。………………神埼くんが……悪果を食べられるの見たくないの……死なせたくないの……」
あかりは潤んだ目を伏せた。朱に染まった目尻が妙に艶めかしくて、タケルは思わず目を逸らした。
「お前、ズルいわ……」
タケルはムッと唇を尖らせて、ハクに歩み寄る。もう決断していた。
鎖を外す。ハクを開放すると。
――あの男が死んだら、きっと俺は後悔する。あの男が誰かを殺したら、その時もきっと後悔する。無茶苦茶、後悔する。
どっちに転んでも後悔するんだったら、大惨事を回避しつつあかりの寿命が取り返せる可能性にかけたい。あるかないかも解らない可能性でも。
――瀧本は俺が喰われるところを見たくないなんて言いやがった。だったら、俺だって瀧本が喰われるところ見たくないんだって、もっと生きて欲しいんだって解れよ。
自分本位な決断だな、とタケルは苦笑を浮かべる。
でも誰かのためとか正義のためとか、そんなこと考えられなかった。何が正しいとか悪いとか、後にならなきゃ自分には分かりっこないんだと開き直るので精一杯なのだ。
「……神崎くん」
あかりの声が震えていたが、タケルは振り返らなかった。そして、ゴクリと唾を飲み鎖を外していった。
ハクの目が見開く。鎖がひと巻き緩むごとに指を動かし、体を捻り、ニヤリと笑った。
「早くしろ。間に合わなくなるぞ」
ハアハアと荒い息に熱がこもり始めた。焦れているようだ。ギラギラと光る目で睨みつけてくる。
背筋が震えた。タケルは恐怖と闘いながら、震える指で銀の縛めを解いてゆく。
外したら、一番に自分が襲われるかもしれない。しかし、大勢の人間が殺されるのを黙って見ているわけにもいかない。
ハクの手がガクガクと小刻みに痙攣しだした。そして、ぶしゅりと皮膚を突き破るような音がして、一気に爪が二、三センチも伸びていた。
そして腕をブンと振り、タケルの頬に赤い血の線を引いた。
「早くしやがれ! おらあぁぁ!」
のけぞってかわしていなければ、目をやられていたかもしれない。タケルはチッ舌を打ち頬をぬぐった。どんなに弱っているように見えても、相手は魔物なのだということを改めて噛みしめるのだった。
ハクの赤い瞳がきゅううと縮み、小さな点になっていた。唇から真っ赤な舌がチロチロと蛇のように這い出し、顎に滴る唾液を舐めとった。はあぁ、はあぁと喘ぐ様子がは、飢えた獣のようだった。
銀の縛めから解き放たれる歓びと、貪り喰いたいという欲望で炎のように熱くなった息を吐きながら、ハクはタケルに迫った。
「外せぇ!」
タケルの腕に爪が突き刺さる。
ガクガクと震えながら、ハクの首に巻き付いた最後の鎖を外した。
ハクの目が光った。
「ヒャッハッハッハ!!」
ドン!
一瞬にして、タケルは五、六メートルも吹き飛ばされていた。歩道のコンクリートに思い切り尻もちを付いた。
そして、ビュンと風を切る音の方を見る。
ハクが弾丸のように飛んで行く。猛烈な勢いで、男が立ち去った方向へ向かっていた。
あかりが、急いでタケルを助け起こす。
「行こう! 神崎くん!」
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