第7話 守護天使トキ

 タケルは心ここにあらずといった顔で教室に入った。今はもう四時限目が始まっている。

 朝、家を出てからどこをどう歩いたのか分からない。ただ歩き続けて、今やっと教室のドアにたどり着いた。暑いさなかを歩きまわっていたはずなのに、タケルの体は冷え切っていた。

 教師の怒鳴り声もたいして耳には届かず、ふらふらと席に着いた。


――どうしたらいいんだよ。誰か差し出さなくちゃ……でも、誰を? 本当にそんなことしていいのか? 


 何度となく繰り返す問いに、答えは出ない。いや、出てはいるのだが認めたくないのだ。己の保身の為に、他人を犠牲にしようとしていることを。

 タケルの頭には、とっくに大沢の顔が浮かんでいたのだった。

 身代わりを差し出せば、自分は助かるかもしれない……でも本当にそれでいいんだろうか。


 いいに決まっている、と言う自分がいる。

 絶対にダメだ、と言う自分がいる。

 大沢を差し出せば殴られることもなくなって全て解決じゃないか、と煮え切らない自分にイラつく自分。

 でもやはりダメだ、とまだ抵抗する自分もいる。

 どうしよう。

 どうしよう。

 身代わりを出したって、ダメかもしれない。だからといって、自分が喰われるのをじっと待つ気にもなれない。

 あいつに悪果を食べられる、とはどういうことなのか。食べられたら、人間はどうなるんだろう、と延々と悩み続けていた。


 息が苦しい。もう何も考えたくなかった。タケルは机に両肘をついて、頭を抱えこむ。そうやって身体を支えるのが精いっぱいだった。

 ぼうっと机の木目を見るとはなしに見つめていると、天板の中央部分が揺らめいているのに気づいた。

 思うまもなく、その揺らめきが昨夜のあの二十センチほどの小さな異形に変わった。


――出た!


 ひげを生やしたあの小さな妖精だ。

 悲鳴が出かかり、すんでのところで堪えた。


「イヤハヤ、面倒なことになったのお。お、そうそう、そのまま声は出すなよ。怪しまれる。わしの姿は周りの者たちには見えぬからな。無論、声も聞こえん。黙って聞いておれ」


 タケルは、慌てて目だけを左右に動かしてクラスメイト達を伺った。確かにすぐ隣の生徒でも、この妖精には気づいていないようだった。

 やはり自分にしか見えないのだ。見たくもないのに。

 一体何者なんだ、これは。

 あのハクのようなはらわたを凍りつかせるような恐怖は感じないが、この小さな妖精も十分奇怪だった。


「そう、不気味がるものでないぞ。わしはぬしを守護しているのだからな」


 胸を張り、髭を撫でながらソイツは言った。

 守護という言葉にタケルの目が輝く。


「と言っても、あまりわしをあてにしすぎるのも、いかん。アヤツを滅するような力は持ち合わせておらんからのぉ。おお、いい忘れておった。わしの名はトキと言ってな、以前からぬしに取り憑……いや、優しく見守っておったのだ」


 うんうんと一人でうなずいて、机の真ん中にあぐらをかいた。

 こいつは今「取り憑いて」と言おうとした。何が守護だと、タケルはこのうさん臭い小妖精を、握りつぶしてやろうかと思った。

 一捻りで、息を止められそうだ。


「このたわけ! 物騒なことを考えるでない! 恩を仇で返す気か!?」


――俺の考えてることが分るのか?


「多少はな」


 タケルは驚愕し、小妖精を見つめた。

 ハクといいトキといい、なぜこんな人外の存在に付きまとわれるハメになったのか。ズンと肩が重くなり、ため息が出た。


 トキは軽く自己紹介を始めた。彼はハクとは別種の「夢喰い」なのだと言った。バクと呼ばれたこともあると。彼はタケルに取り憑いて、ずっとその悪夢を食べていたのだ。

 悪夢にうなされても内容を全く覚えていなかったのは、このトキのせいだったようだ。


「悪夢など見たくなかろうが、ぬしは繰り返し悪夢を見てしまう質のようでのぉ。ぬしが苦しむのを見ておれんので、わしが綺麗サッパリ喰ってやっておるんじゃ。しかし昨日は、アヤツに横取りされて……ったくあの盗人妖魔め、わしの食い物を。まあ、とにかく感謝せいよ。ぬしが精神の健康を保っておられるのは、わしのおかげじゃぞ」


 トキは偉そうにふんぞり返って、ごほんと咳をした。


「要するにわしは、ぬしの味方だということじゃ。出来る限りのことはしてやろう。でないと、わしの喰い物が無くなって……イヤイヤ、わしは守護天使じゃからのぉ」


――どこが天使だ。見え透いたことを。


 タケルは呆れたが、トキの言うことは何故か信じられた。というよりも信じたかった。味方だという言葉を。

 かなりうさん臭いがハクのような邪悪さは感じなかったし、自分の食料確保のために味方するというのなら、それはそれで納得がいく。

 ギブ・アンド・テイクだ。

 トキが、何らかの方法で守ってくれるのであれば、自分も喜んで悪夢を喰わせてやる。むしろ、どんどん喰ってもらいたい程だ。

 どうせなら、目覚めの不快感も残さぬくらいに徹底してもらえたら、尚良い。


「そう、ギブ・アンド・テイクでいくとしよう」

――本当に助けになってくれるのか?

「無論じゃ。ただし、さっきも言ったがの、あてにし過ぎてもらっては困るぞ。アヤツの魔力はかなり強いと見ていい。それに、わしの力とはベクトルが違うでの」

――なら、お前がアイツにやられたらどうなるんだ。

「わしがやられるとな? あり得ん話じゃ。危なくなれば、逃げるだけのこと」

――逃げるのかよ……って、だからそうじゃなくて、オレはどうなる。

「……ん、まあ、わしは最初からいなかったということで」

――殺す。


 タケルは、トキの体を片手でぎゅうとひっつかんだ。


「冗談も通じんのか! 離せ! この阿呆め! 大体、ぬしはこのわしに畏敬を感じんのか? まさかこの守護天使様をバカにしておるのか? アヤツの前では、ガタガタ震えてションベンちびって泣いておったくせに。ちっとはわしを信用せんか! 早う、離せ!」

――信用できるか! ホラ吹きめ。

「わかった。わかった。訂正する! ぬしはちびってはいない。離せ!」


 トキはキーキー声をあげ、ブンブンと頭を振ってもがいた。

 自分が軽く掴んだだけで、抜け出すこともできないこの小さな生き物に、一体どれだけの力があるのだろうと、タケルは怪しんだ。


「たわけ。わしの力は人間の馬鹿力とは違うというのが解からんか」


 そう言って、ニタリと笑った。

 タケルが解放してやると、トキはさも大儀そうに体をさすり、首をコキコキと鳴らした。


「全く、道理を知らん奴じゃの。……よいか、わしはさっさとこの場を去り、他の人間に憑くことも出来るんじゃが、わざわざぬしの元に留まり、尚且つ、助け手になってやろうと言っておるんじゃ。それをよーーくわきまえておけ」


 タケルはしぶしぶ謝罪した。

 確かに感謝すべきことだろう。


「それで良い」


 満足そうに笑った。なんだか孫を見るじいさんのような顔だなと、タケルは思った。


「わしはぬしを気に入っておるのだ。悪いようにはせん。ぬしは気づいておらなんだじゃろうが、小さな子供のころから見てきたからのぉ。まあよい、それは置いておくとして……早速、対抗策を練ろう、と言いたいところじゃが、まずは敵を知らねばならん。わしは少しばかり敵情視察に行ってくるでの。今日のところは、ぬしはせいぜい学業に励んでおれ」


 そう言って、唐突にトキは現れた時と同じように揺らめき、消えてしまった。


 ドッと力が抜ける。

 また、サッと左右に目を配ったが、気づかれてはいないようだ。

 トキが助けてくれる、そう思うと安堵で頭がぼうっとなった。彼が言うように信じ過ぎるとしっぺ返しに会うかもしれないが、それでも一筋の光明であった。


 机に突っ伏して、目を閉じた。体が重い。

 タケルはずるずると眠りに落ちていった。

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