第2話 日常の悪夢
思い返せば、朝から気分が悪かったのだ。目覚めもひどいものだった。学校もつまらなかったし、楽しいことなんて一つもなかった。
極めつけは、アーケードで見てしまったあの真っ白な得体のしれないモノだ。
今日は厄日だと思う。いや、今日に限ったことではないのだが。
タケルはブルッと身振りし、大きなため息をついた。
悪夢を見た日はいつだって厄日なのだ。
今朝見た夢はなんだったかと、ふと考える。しかし、具体的なものは思い出せない。それなのに不快感だけが強烈に残っているのだ。
あの悪夢はアレに遭遇してしまう予兆のようなものだったのだろうかと、タケルは芯から冷え切った腕をさするのだった。
*
ドクン! ドッドッドッドッドッ!!!
突然、眠りから覚めた。
耳の奥で心臓の音がドラムのように鳴っていた。白い陽光が、針のように目に突き刺さってくる。
ガハッと喉に詰まっていた塊のような空気を吐き出すと、やっと呼吸ができるようになった。荒い息だったが、それでも息苦しさからいくらか解放された気がした。
額を流れ落ちてきた汗が目にしみる。手の甲でそれを拭うと、タケルはベッドの上で上半身を起こしている自分に気がついた。心臓はドクドクと早い鼓動を繰り返している。
また夢を見ていた。今はもう、なんの夢だったか思い出せないが、どろどろとした後味の悪い吐き気のようなものがこみ上げてくる。内容は全く覚えていないのに胸苦しさだけは強烈に残っていた。
小学校の終わり頃からよく悪夢を見るようになり、最近は特に多い。数カ月に一度だったものが、数日に一度になるという具合だ。
目下、タケルを悩ませているものの一つだった。
時計を見ると朝の五時過ぎを指していた。いつもの起床時間よりかなり早かったが、もう眠れそうにもない。近所の公園のセミたちも早起きで、既にやかましく鳴いていた。
ムッとする熱気が部屋の中に淀み、開いたままの窓からも、風はそよとも吹いてこなかった。
七月初旬。
もうじき始まる夏休みの間、タケルは家を離れるつもりだった。田舎で一人暮らしをしている祖母の家に行こうと思っている。そうすれば、大沢先輩と顔を合わせることもない。あと少しの辛抱だ、と胸の内でつぶやいた。
タケルは大きくため息をついて、汗で湿気たTシャツを着替えた。
体を伸ばすと腹が痛み、思わず頬が歪む。昨日、大沢に膝蹴りを何度も食らったせいだ。気がつけば、ギリギリと歯を噛みしめていた。
高校の制服に着替えて居間のソファに寝転んでいると、ガチャリと玄関の鍵を回す音がした。
母親が帰ってきたようだ。
タケルの母はスナックのママをしている。いつも店を閉め片付けて帰る頃には、とっくに日付が変わっている。
それにしてもすっかり朝になってから帰ってくることなど、今までにないことだった。
居間に一歩足を踏み入れた彼女は、素っ頓狂な声をあげた。
「あらぁ? 驚いた。もう起きてたの」
母親はちらりとも自分を見ないタケルの足元にバサリと新聞を放り、テーブルにコンビニで買ってきた菓子パンを置いた。いつも通り、定番の朝食だ。
「毎日こんなだったら起こす手間がなくていいんだけど。じゃ、母さん寝るからね。ちゃんと学校行きなよ」
そう言って、さっさと隣の部屋に姿を消した。煙草と酒の臭いがプンプンしていた。
タケルは母の部屋を振り向きもせず、チッと舌を打つ。
母は煙草を吸わない。客の煙草の匂いが移ることはよくあるが、今日はそれ以上に臭っているような気がして、嫌悪が湧いた。
「クソババァ……」
つぶやいて、タケルはなんとなく新聞に手にとった。ただ手持ち無沙汰だっただけで、新聞に興味があったわけではない。
だが手にした瞬間、白抜き文字の見出しが目に飛びこんできた。
『また自殺 同じ中学校で三件目』
途端に記事に食らいつく。三人目の自殺者が出た中学はタケルの母校だった。
いつも一限目の始まるギリギリで登校するタケルだったが、今日は余裕で教室にたどり着いた。
一歩足を踏み入れると、扉のそばにいた女生徒達が息を飲み頬を染めて道を開けた。たったそれだけで、クラスメイトたちが一斉にタケルを見た。
神崎
もちろんそれも理由の一つだが、彼らがタケルを見てしてしまうのは整った容姿のせいだったし、この年頃特有のとんがった態度のせいだった。
スっと通った鼻筋、意志の強そうな形の良い眉、目は二重で少し鋭い。寝不足でできた微かな隈さえ、彼の秀麗さをより際立たせる彩りのようで、クラスメイトの目を惹きつけるのだ。
ただ、恵まれた容姿を持ちながらも、鋭くガンを飛ばして人より高い位置から見下ろすものだから、相手はかなりの威圧感を感じてしまうようだ。
更にこの目付きの悪さが災いするのか、遠巻きに熱い視線を送る女子はいても近寄る者は少なかった。ニコリと笑いさえすれば、男子も女子も関わらず多くのクラスメイトを魅了できるだろうに、タケルはどこか固く粋がった態度を崩せずにいた。
近寄り難さを放っているせいで、友だちもあまり多くはない。しかし、一旦心を開いた相手とは、気さくに付き合える程度の愛想は持っていた。
「うおぉ! 珍し! 神崎がセンセーより先に来るなんて! こういうの晴天のレキレキって言うんだよな!」
クラスメイトの柴田が冷やかした。女子達が、「
「うっせーぞ、柴田!」
特に腹を立てたわけでないが、目覚めの悪さから機嫌の悪いタケルは顔をしかめて学生カバンを、ダンッと机に叩きつけた。
それは、斜め前の席の武田が丁度椅子に手をかけたところだった。
一瞬タケルと目が合った武田は、体をビクリとこわばらせて、それからさっと目を伏せて自分の椅子に座った。
武田はタケルの肩ほどの身長の猫背の痩せた少年だった。口数が少なく目立つのを嫌うタイプだった。
武田はタケル目が合ったことにで、明らかに怯えてている。
タケルはその様子に苛立ちを覚え、武田に近寄り彼の椅子を蹴飛ばした。なぜだかタケルは武田に対してだけは、冷酷だった。他のクラスメイトにはあまり関心を向けないのに、彼にだけは残酷な顔を見せつける。
「おい。俺が早く来ちゃいけねぇのかよ」
武田は椅子の位置を静かに直し、背を丸めて黙って座っている。
「すっげームカつくよな。お前さあ!」
タケルはもう一度、ガンッと椅子の足を払うように思い切り蹴った。すると、武田は椅子と一緒にあっけなく床に転がった。タケルはそれを見下ろし、にらみつける。
「かっはっは!」
柴田や、他の男子たちがそれを見て大声で笑った。
誰も驚いてはいなかった。これは、いつものことなのだ。
「やめとけよ、神崎ィー。朝っぱらから絡むのはさあー」
と柴田がニヤニヤ笑って言った。
遠巻きに女子もこっちを見て、こそこそ何か言ったり笑ったりしている。
自分の粗暴な態度を、笑っているに違いない。嫌なヤツだとけなしているんだろう、そう想像してタケルはまた苛立ちを感じる。
武田は何事も無かったように立ち上がり、また椅子に座った。それを見た途端に、タケルは頭にカッと血が上るのを感じた。
――なんで、何も言い返さない。なんで、やり返さない! 悔しかったらやり返せよ!
武田のやる気のない諦めきった態度が、タケルの自尊心に矢を突き立てる。いっそ、むちゃくちゃに殴ってやろうかと思った。
その時チャイムが鳴り、みな席につき始め、タケルは武田を殴る機会を失った。
乱暴に椅子に座ると、大沢に蹴られた腹がまた痛んだ。
無様だ、そう思った。
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