第9話 距離が縮まる瞬間


色んなエピソードがあるけれど、未だにビビりながら介助に入る人がいます。


2階に住んでいるN子さん。


「あんパンとクリームパンください」とナースコールを鳴らすこの人は、今でこそとっても可愛いおばあ様だけれど、入居したての時は本当に大変でした。



***



「え、なにそれ?どうしたんですか?」



ある日出勤すると、先輩職員の田中さんが、眉間から流血していました。


「N子さんに引っ掻かれた。」と真顔で私に返事をしてきました。


田中さんは男性ですが、他の男性職員よりも活気があり見た目が若い職員です。

しかし元気いっぱいで愛想がいいという感じではなく「ちょっと大人しめな高校生」みたいな感じです。

愛想がいいわけではないので、物事はハッキリ言うタイプなので、はっきりいって接客業には向いてないかもしれません。

なので、入居者様とぶつかり合うこともありますが、飾らない態度だからこそみんな信頼するのだと思います。


N子さんは入居当初「会話は5分以内」「人と関わるのが苦手」「介助拒否あり」そんな情報がありました。


「食事に連れていこうとしただけなんだけど」


と田中さんはいいました。


「爪切らなくちゃだめだ、危ない。」


これまたとんでもない人が入ってきたなあと内心思いました。


N子さんは、入居者の中では若い方で、パートの最高齢おばあちゃん(私が勝手におばあちゃんと慕っている)と一歳しか違いがありません。


だからそのパートさんは気さくに話しかけたりしましたが、喋らないし叩くし蹴るし引っ掻くして職員はみんな困り果てていました。


暫くは食事は居室に運び、お風呂の介助など出来ませんでしたが、ある時服薬の内容が変わりました。


すると、これまでの事が嘘のように穏やかになりました。


それでも私は叩かれたり引っかかれたりした記憶が抜けなくて怖がってました。

本当は話しかけたりしたいけど、また嫌な気持ちにさせたくないし、自分もしたく無かったから。


そのうちに新しい職員さんが入社して、その人は介護のお仕事が長い人でした。


「ね、N子さんあっち向いてホイわかる?」


と言って話しかけました。

その時N子さんは珍しく居室の外に出ていたからです。

N子さんは頷いて、その職員さんと遊び始めました。


私はN子さんがそんなふうに遊んだりするとは思わなくて、びっくりしました。


「N子さん珍しいね。今日は散歩でもしたの?」

「うん、そう。」


職員さんが柔らかい笑顔で尋ねると、口数は少ないものの会話をしていました。


その職員さんは、N子さんが暴力を振るったりする時にはまだいなかったのですが、情報として知っていたはずです。


N子さんは次第に表情豊かになって、根本的には大人しくて一人で過ごしていることが多いけれど、



「あんパンとクリームパンと、カルピスください」



とナースコールが鳴るようになりました。


訪問介護で外出があったので、以前に買ってあったクリームパンを渡しました。


「お腹が空いちゃうの」


元々少食で痩せ型のN子さんは、一人で暮らしていた時には菓子パンや甘い飲み物がお好きだったようで、よく食べていたようです。


N子さんは施設に入る前は独居していたらしく、兄弟のお嫁さんが時々様子を見に行っていたようでした。

血の繋がった家族はいないようで、ずっと一人だったようです。


なので、私はN子さんがお話をしてくれるようになったのがとても嬉しかったです。


介護は辛い時もあるけれど何とか頑張れるのは、こうして入居者様との距離が縮まったときの喜びが大きいからかもしれませんね。






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