第9話:GOTO名古屋編 ――隠れろブラジャーの森
のんびりひつまぶしを食べた後は近くの金山駅の駅前などをうろつきまわり、駅前のショッピングモールをのんびりと冷やかした。金山の駅前はまだギャルだった頃の猫ちゃまがよく歩いていたらしく、美味しい店やおしゃれな雑貨屋などを階段を上り下りしながらトレースしていった。
「けっこう潰れてる……」
「かわいそに」
「でもディズニーショップがあるから平気」
それが潰れたらえらいことだ。
実際、この頃の東京(千葉)の本体のダメージはニュースサイトで見るだけでも深刻だった。何匹ものミッキーが首を切られてウォーターパークに沈められた、もといキャストがクビになったとも聞いている。
「グーフィーはお客さんに餌がもらえなくてやせ細っているらしいよ。かわいそにね」と言うと、
「グーフィー興味ない。私の推しはマリーちゃんだし」と猫ちゃまは冷淡にも痩せ犬を切り捨てた。
しかしマリーちゃんもまたディズニーに切り捨てられたのか、ショップには一つもグッズが並んでいなかった。代わりにラプンツェルや人魚姫といった人型のヒロインたちが、流行りのアナと雪の女王と並んで飾られていた。
「獣が足りねぇ」
と渋い声で嘆く猫ちゃまが本当に好きなのは、実のところマリーちゃんではなかった。マリーちゃんにはしなやかな体つきをしたママ猫がいて、本当はそのママ猫、ダッチェスが一番好きなのだという。
「ちっちゃい頃にダッチェス見て一目で好きになったの。すんごいしなやかでおしゃれでね」
「――え、ってことはマリーちゃんが出てくる『おしゃれキャット』って、おしゃれなのはマリーちゃんじゃないの?」と質問をすると、
「は? おしゃれキャットエアプか?」
と猫ちゃまは機嫌を悪くした。そんなことを言われても日本人男性の98パーセントくらいはおしゃれキャットエアプだろうに。
〇
そして金山駅の地下を歩いているときに事件は起こった。
二人して仲良く人気のない地下をさ迷っていたら、曲がり角でリュックを背負った背の高いメガネ男に出くわした。年のころは私とそう変わらないだろうか。小さな瞳に薄い唇をしていた。私は猫ちゃまを後ろに引き寄せつつすっと躱して、ぶつかることもなくすれ違った。
そのまままっすぐ駅の反対側を目指すうちに、
「おい、お前」と遠く後ろから声がした。
何の声だろうと思うこともなくスルーして歩いていると、
「お前だよお前!」と声が近づいてくる。
「馬鹿にしやがって! おい! おい!」
これひょっとして私のことかと気づいたときにはもうだいぶ声は頭の後ろに迫っていた。
危機に陥ったときの人間のとっさの対処法には性格が出る。
①振り向いて狂人に立ち向かう。
②猫ちゃまの手を取って走って逃げる。
③猫ちゃまを犠牲に一人で逃げる。
理性でパッと思いつく選択肢は上記の三つだが、当時の私はいずれの選択肢も取らなかった。
猫ちゃまと一緒に気づいてないふうを装いつつ駆け足で歩き続ける。コロナで寂れかけているとはいえここは金山であり、駅地下はシャッターを下ろしている店ばかりではない。
我々の行く手の左手にはちょうどいい感じに若い女性向けの、ランジェリーショップがあったのである。
「おい!」という声が髪の毛を掠るか掠らないかのところで、我々はランジェリーショップの中に入った。
そのまま気を緩めることなく店内の奥へと入り、ブラジャーの森へと身を隠す。
すると声はぱったりと収まり、店の中はこじゃれたBGMと共に静けさを保っていた。さっきまで叫んでいたのは人間じゃなく悪霊か何かと思わせるくらいの空気の急変ぶりだった。
「え、え、」と猫ちゃまはまだ混乱している。突然の襲撃に脳みそがまだ追いついていないのである。
「今のって私らにだったよね?」
「せやろな」
と言いつつもまだ店の外を見ることはできなかった。ある程度レベルが進行した狂人ならランジェリーショップに入れないまでもその出口で出待ちしている可能性は十分にあったからである。
「おっちゃんなんかしたの?」
「いやちゃんと避けたよ」と言いつつ、たしかに避け際にしっかり視線は合ったなと、私はメガネ男の顔を思い返していた。
丸メガネの奥の小さな一重と感情の乏しそうな瞳。濁った白目は今にもまな板から滑り落ちそうな豆腐のような不安定さを醸し出していた。肘や膝といった体の節々が目立つ痩せた体に黄緑色の半そでシャツと暗い色のジーパンを履いて、リュックを背負っていた。リュックは重そうに膨らんでいた。
曲がり角でいきなり出くわし、うまいこと避けたにも関わらず追いかけてきたということは、最初から誰かにぶつかろうと思ってあの角にいたのかもしれない。そして向こうからふらふら歩いてきたカップルに狙いを定めていたのだ。ひっそりと。
「危なかったねぇ、ランジェリーショップがなかったらやばかったよ」と猫ちゃまに言うと、
「ここはキモオタには入れない聖域だからな」と猫ちゃまはのんきに同意した。
あらゆる街の地下に点在するランジェリーショップの存在意義に、私はそのとき初めて気づいたのであった。道端で下着を売るということについて子供の頃からなんとなく気になっていた違和感が解消された。
ランジェリーショップとは、女性が地下で付きまとわれたときのセーフゾーンだったのである。男が一人で入ることはできない聖域。色とりどりの下着の輝きには狂人ですら恐れ入る。どんな極悪人にも通用する水戸黄門の印籠だったのだ。
そして我々は下着を見ながらしばらく時間をつぶし、狂人がいなくなったのをきょろきょろ確認しながら速足で地上へと戻ったのであった。
〇
「おかしいお! なんで私らの行くところにはやばいのばっかりいるの? ちょっとおっきいリスとかがいるの?」
と猫ちゃまは文句を言いながら車を運転している。名古屋の道はどこもかしこも複雑で、かなり余裕を持ってホテルのチェックインの時間に間に合うように動いたはずが、車線を一つ間違えたせいでたどり着けずに、ホテルの周りをもう二周ほど回っていた。どこから駐車場に入ればいいのかも分かりづらかった。
「ジョジョを見ただろ。スタンド使いは引き合うんだよ」と私は助手席から猫ちゃまにこの世の摂理を説明してあげた。スタンドに限らず視点や思考が近しいものはかみ合うのだ。金山の地下をぶらぶらしようとするカップルがいれば、それを物陰から狙う狂人もいる。そして狂人から守るためにランジェリーショップがある。全ては需要と供給が嚙み合っているから起こることなのだ。
「シンクロニシティということ?」と猫ちゃまも刃牙で理解してくれた。嫌がる彼女に無理やり刃牙やジョジョを見せてよかったなとこのとき思った。
そのホテルは我々を拒む城かのように高く高くそびえ立っていた。需要と供給のつり合いでいえば我々とはまったくシンクロしていなかった。駐車場は分かりにくく地下に点在し、エレベーターはまるで隠されるかのように建物の裏手にあり、「ほんまにこっちにあるの?」と惑わせてきた。表示の案内も「知性があるなら分かりますよね」と言わんばかりに控えめで、まるで京都のような一見さんお断りの雰囲気を醸し出していた。
それは名高き名古屋プリンスホテルスカイタワー。
狂人の襲撃を乗り越えた我々は、いよいよ今回の旅行のメインである天空の城に、GOTOの翼を借りてたどり着いたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます