第7話:常滑無城編―空の門前―
カフカの小説に「城」というものがあって、主人公は城の周りをぐるぐるぐるぐるとするばかりで一向に城の中には入れないという話らしい。
らしいというのは大昔に最初の50pくらい読んでそのまま積んでいるので、本当にたどり着けないのか知らないからだ。実は最後まで読んだらたどり着けているのかもしれない。
「セントレア空港に行きたい」と猫ちゃまが言い出したときは耳を疑った。
「空港からどこかに行くんじゃなくて?」
「空港に行きたいの。おもしろいんだよ」と鼻をふんふんさせている。
それはまるで駅に電車を見に行きたがる小学生のようだった。移動手段そのものが目的という倒錯である。
好意的に解釈するなら猫ちゃまはおそらく遠慮しているのだった。本当は飛行機に乗って北海道なり沖縄なりに行きたいのだろうが、遠いし休みも取れないし金もかかるので、空港まででいいよと妥協をしているのであろう。
そんな妥協の仕方があるかと喉までツッコミが出かかったが、「じゃあ沖縄ね。ソーキそば食べよね」という方向に話が発展するのも実際つらいので、飲み込んでおくことにした。季節は真冬。北海道は寒すぎるし、沖縄でも泳げない。
「前に行ったことあるの?」
「妹と行った。いろんなお店があって楽しかった」
――なるほど。土産物屋的な楽しみを求めているらしい。
「ドライブだね。私が運転するから」とまで言われれば特に文句もないので、空港まで行くことにした。
途中で半田市にある有名なパン屋に寄って食パンなり買うことにした。ところが車を一歩下りるなり強烈な生っぽいにおいが鼻腔を襲った。
「牛くさいめー」と猫ちゃまもしかめっ面をしている。
どうやら半田市は畜産業が盛んなようで、その日の風向きや湿度によって空気の中に牛が混ざるらしい。たぶん慣れたらなんてことはないのだろうが、今からパンを買い食いしようというタイミングで不意打ちでにおうと少々面喰うものがあった。
しかしパン屋の店内はしっかり空調が聞いており、わずかに残ったふかふかの食パンの他にジューシーな惣菜パンも手に入れて、イートインコーナーで食べることができた。
「老後の計画を考え直さないとな」
「み?」
「田舎で鶏に餌をやりながら生きていこうと思ってたんだけど。なんというか、森の香りをイメージしてるわけやん。我々の理想の田舎生活って」
「そなの?」
「牛まったりはちょっとイメージと違うわけよ」
「うしーまったりー」
「してはじめてー」
「おかしたつみをーしるーででんでんでんでん」
ノリノリで白日を歌いながら猫ちゃまはアクセルを踏みしめる。車の中にしばらく残っていた牛まったりは、通り道の長島に近づくに連れ薄らいでいった。
真冬ということもありナガシマスパーランドには入らなかったが、抱き合わせみたいに建てられているアウトレットパークには寄ってみた。ブランドの名前が分からなさ過ぎて猫ちゃまに怒られながらのんびり歩く。まだコロナは中国で流行っているばかりの頃で、誰もマスクを着けておらず、密も気にせず歩いていた。ポールスミスの掘り出し物の財布を買って、二人で機嫌よく小籠包を食べたのを覚えている。あの小さな中華屋は今でも潰れず残っているだろうか。
たった半年ほどでどこへ行くのもずいぶん気忙しくなったものだ。
車で常滑市に入ると猫のシンボルをそこかしこで見ることができた。「なめねこ」に勝手に便乗しているのかそれとも許可を取ってコラボしているのかは知らないが、「半田が牛なら俺たちは猫でいく」という気合を感じた。
それこそ城のような大きさの常滑イオンの売り場も大々的に猫グッズに占領されているし、見上げるほど大きな招き猫のオブジェまで設置されていた。せっかくだから実家の猫のために凝った形の段ボールハウスとチュールを買い込んだ。
その後、明太子がおかわりフリーな定食屋で金目鯛の定食を食べた。イオンの傍にかねふくのめんたいパークがあるのできっとその繋がりだろう。
猫ちゃまは白いごはんは好きではないが明太子は大好きであり、ほっけ定食を頼んで思うさま口に運んではハフハフと頬張っていた。猫ちゃまはごはんが嫌いなことは知っていたが、白いごはんをこっちによこして明太子だけを頬張るほど嫌いなのかと少し驚いた。
「ごはん食わないんだね」
「味があれば食べれるけど。卵かけごはんは好き。いっぱい醤油かける。卵は半熟の温泉卵」
「糖質ダイエットかなにか?」
「んーん、嫌いなの。食べるのしんどい」
そういうものか。私はむしろ白米は好きな方だ。
ただもちろん、白米が好きだというのは文脈や余白も込みでのことだ。味がないと辛いのは同じ。白米の中には当然おかずが織り込まれている。
「ま、媒介にも口触りの好みはあるよね」
「み?」
「人間の中には当然ウィルスが織り込まれているってこと」
「何の話?」
「未来の話」
セントレア空港にたどり着いた頃にはとっぷりと日が暮れていて、それでも空港は煌々と明かりを灯して稼働していた。そしてずいぶん盛況だった。第一ターミナルに近い駐車場は満車だったので、遠く第二ターミナル側の駐車場に停めなければならなかった。適切な道で右折できずに、ぐるぐるぐるぐると広い空港を二周して入り口を探すうちに思い浮かんだのが冒頭の「城」のあらすじだった。
「どこにもいけないねぇ」と嘆息して猫ちゃまに言うと、
「文句言うな!」と切れている。
あまりにもカーナビに頼りすぎる我々は空港の複雑な案内標識に対応できないのだ。「満」「空」「満」「満」「空」の中でどうしてか「満」にしかたどり着けないのである。
「まんー!」と鳴いてはまたハンドルを切っている。
「ねーぇ、知ってる? 土星の環を何周しても土星には決してたどり着けないんだよ」
「土星ってなに? おいしいのか?」
猫ちゃまは半分わざとやっているのではないかと思い始めた私はアプローチを少し変えてみることにした。「次を左折な」と適当なノイズを撒いてみることにしたのだ。そうして猫ちゃまの複雑なようで単調な脳みそにカオスを与えてみると、三周目の途中でようやくシグナルが「空」に切り替わった立体駐車場へと車を入れることができた。
「城に着いたな」と猫ちゃまに言うと、
「なー」と燃え尽きたような空っぽの答えが返ってきた。なー。
少々複雑な立体駐車場からターミナルへの道は、まるで一昔前の女神転生のダンジョンのようだった。エンカウントするのは日本人が三割で中国人っぽい中国人が四割。陽気なヒスパニック系が二割であとの一割はそうでもないヒスパニック系だった。――この比率も今となっては様変わりしているのだろう。
通路で散々迷った挙句に、観賞用の退役ジェット機とフードコートが一体になった「FLIGHT OF DREAMS」なる吹き抜けの広場に出た。ジェット機はさすがにかなり大きく、乗り込むことはできないが近くで見るだけでも少し浮かれるものがあった。青と白のラインにのんびりとした形の顔つき。丸みを帯びた流線形の胴体はかっこいいとは言い難いが、なればこそ大型の草食動物のような親近感がある。
ジェット機をバックに写真を撮った我々は、例によって何を食べるか悩んでいた。なにせ空港には食い物屋と土産物屋ばかりで、飛行機にも乗らないのにわざわざ来たのだからその全てを網羅する必要があったのだが、現実的に我々はお腹がすいていなかった。しこたま明太子を食ったのだから当然である。
先に土産物屋をぐるぐる回ることにした。ジェット機の近くにあった土産物で印象深かったのは水星から冥王星までの太陽系おなじみの天体をモチーフにあしらったイースターエッグ(コナンの世紀末の魔術師にでてくるやつ)である。大変きれいだったが一つのエッグで2万円ほどのコレクションだった。集めて数年後にメルカリで売ればペイできるか、とも一瞬考えたが、「きれいねぇ」とその場で愛でて思い出にしまっておくのが一番良いかと思い直した。
ぶらぶらしながらかなり歩いてたどり着いた第一ターミナルで、猫ちゃまがもっとも反応したのはポケモンストアだった。「ポケモンストアの周りにはレアなポケモンが集まりやすいんだよ。空港でラッキー捕まえたことあるし」と車の中で三回自慢していたくらいである。
しかし現実は厳しく、その日ポケストの周りにいたのはサンタ帽子をかぶったピカチュウとユキワラシとサンタ帽子をかぶったピカチュウとサンタ帽子をかぶったピカチュウだった。当てが外れた猫ちゃまは躍起になってそこらの土産物屋の隅っこでポケモンを探し始めた。私もポケモンGOはインストールはしていたが、たいしてやりこんではいない。ナゾノクサの飴を集めてキレイハナにしようと画策しているレベルである。ポケモンセンターの周りではもう何人か子供がスマホをいじっていて、なるほど一時期ほどのブームはないが流行っているのだなと思った。やがて5Gが子供向けスマホにまで対応する時代が来たら「~が勝負をしかけてきた!」の流れが実現できるところまで来るのかもしれない。
その後も第一ターミナルのレンガ通りとちょうちん横丁をぐるぐるぐるぐる回るうちに、お腹が空いてくればよかったのだが、まったくそんな気配はなかった。「ねぇ何食べる?」「何食べたいの?」「何もわからん」という会話をしつつ、あれも美味しそうねぇこれも旨そうだなとうろつく我々はどんどん「暇人」としての世界ランキングを上げつつあった。
たぶんカフカの城の主人公に「何で城の周りでぐるぐるしてるんですか」と訊いたら「城に行きたいんです」と答えるのだろうし、「じゃあなんで行かないんですか」と訊いたら「行こうとはしているんです」と答えるのだろう。
我々も同じだ。何か食べたいし食べようとしているのだが、食べられない。
――だったら諦めるべきだろう。
せっかく来たのだからとか、美味しそうな店があるとか、そういう未練は捨てるしかない。
しかし「帰るか」というと猫ちゃまは「やんやんー」と未練を捨てきれない様子でなおも食べ物に目移りしている。
ゾンビのように徘徊するうちにターミナル側に出てしまって、フライトの電光掲示板がつい目に入った。
そこで、襲われた。
〇
――もちろん襲われたというのは比喩表現だ。言い直すと、ある東京行きの便だけが妙に光輝いて見えたのである。
何に襲われたかというと、「そこに行けば何かがあるかもしれない」という期待のことだ。
私には子供の頃からそういう傾向があった。バスの時刻表で時間の一部だけが輝いて居たり、電車の路線図である駅だけがひどく濁って見えたり。時には寝ているときに音で表現されることもあった。ピューという時代遅れの汽笛が枕元で毎晩聞こえてきたとき、私の頭の中に浮かんでいたのは駅ですらなく、近くの山にぽつりとあるヘリポートのことだった。
そこで、誰かに、呼ばれている気がした。毎晩、毎晩。
けれどそんなのは正気じゃなかったから、脈絡もなかったから、私はベッドから抜け出さなかった。どんな城に向かうこともなく日々をやり過ごしているうちに、やがて音や光の頻度は減り。あったとしても、ないも同然になった。
だが、「行ってみるべきじゃないか」と時折悩む私に余計なことを吹き込むのは、やはりカフカの作品だった。
「掟の門前」という有名な短編がある。ある門と、その門を通ろうとする男と、門番が出てくる。たったそれだけのシンプルな、舞台の脚本のような作品だ。
男は門を通ろうと門番に声をかける。
門番は言う。「この門を通りたければ通ってもよい。しかし門をくぐったところで次の門と門番がいるし、それはおそらく永遠に続くだろう。それでも門をくぐるのか?」と。
男は長い時間をかけて門と門番を探るが、門をくぐることはできない。そうするうちに老いてしまい、やがて絶命しようとする瞬間もまだ門の前にいる。
「この門は何のためにあったんだ?」と男は門番に問う。
「これは君のための門だったんだ」と門番は答える。「さあ、門を閉じるときだ」
〇
「どしたん」と猫ちゃまが袖を引く。
「いや、ちょっと久々で」と適当に答える。「ごはんは、何か持ち帰れるものにしよっか。お弁当屋さんあったやろ」
「うん!」
光を放つ時刻表もターミナルも、見向きもしないで横丁へと戻る。私は門をくぐる度胸がない代わりに、門にこだわり続けるほど意固地でもない。
そうしてようやく買えた食べ物は、炊き込んだおにぎりの中に煮卵がまるまる一つ入っている「ばくだんおにぎり」と、いくつかの丸々太った唐揚げだった。
卵が大好きな猫ちゃまは、「これ私のね」と、プラスチックのカバー越しに「ばくだんおにぎり」を嬉しそうに撫でていた。
〇
空港にはそれなりに見るべきものはあった。かなり寄り道もして疲れたし、猫ちゃまは爆音のボカロ曲をBGMにご機嫌に運転してくれている。特に不満はない。城に向かわないし門もくぐらない旅というのはこういう自由なものである。
――不満はない、はずなのだが。
さっき猫ちゃまの撫でた買い物袋の中の「ばくだんおにぎり」が、なんだか少し、光っているのだ。白っぽく不自然に。
「ねーえ、猫ちゃま。お腹空いてる?」
「ん? 空いてないよ」
「そっかー」
えっちらおっちら家に帰ったとたん、疲れていた猫ちゃまはベッドに上がってすやすやと寝息を立ててしまった。
袋の中の「ばくだんおにぎり」はますます輝きを増している。
「――これは君のためのおにぎりだったんだ」とカフカが耳元でささやく。
もちろん猫ちゃまのものだと分かっているし、私だってさほどお腹は空いてない。だから食べる理由なんて、何一つないのだが……。
「食べないのかい? ならおにぎりをしまう時間だ。猫ちゃまのお腹の中にね」
いや、厳密に、心の底までさらってしまえば、食べる理由は一つだけあった。
「まあ、普通にうまそうだよね」
「それな」
〇
「はぁ? ねーえ、ちょっと!」と寝起きの猫ちゃまがぶち切れている。
「ちゃまのおにぎりは?」
「えー、いらないのかと思って食べちゃった」
「はぁ? まじ? ちゃまのだって言ったよね! 起きたら食べるの楽しみにしてたんだけど!」
「だってお腹空いてないって言ってたし」
「今空いてるから!」
「ごはん嫌いなんやろ」
「味がついてたら好きなの!」
「半熟じゃなくて煮卵だし」
「ごちゃごちゃ言うな! 煮卵も好きなの!」
「ごめんって。ごめんちゃい」
「めんちゃいじゃねーから常滑行って買ってこいよ!」
「それはちょっと……」
耳元でカフカがささやいたんだと言ったところで猫ちゃまには何のことだか分からないだろう。
「めんちゃいは? もっとめんちゃいしろよ」
「めんちゃい。――なんか代わりにおにぎり買ったるからゆるして」
「中に卵入ってるのか?」
「入ってないよ」
「ねーえ! ねーえ!!」と門番が怒っている。
掟の門を一つくぐったところで、日常に何の変化もなく。
私はこれからもたぶんろくでもない
門をくぐったところで、きっと小説のネタになるくらいなものだろう。
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