第三十三話 その後の巫女(前編)

   

「みんな、おはよう」

「おはようございます、お姉様」

 艶やかな黒髪を後ろで束ねた少女が、裏庭へ出て巫女たちに声をかけると、同じような挨拶が返ってきた。

 裏庭の掃除は本来、入ったばかりの新米ルーキー巫女の担当であり、彼女のするべき仕事ではない。自分が場違いなのは承知しており、若い巫女たちから腫れ物に触るような扱いをされるのも仕方がないと思う。

 いや『腫れ物に触るような扱い』の理由は、他にもあった。

「お体の方は、本当に、もう大丈夫なのですか?」

 と、短髪童顔の巫女が、今も声をかけてきたように。

 少し前までアデリナ・オレイクは、意識不明の重体で、床に臥せっていたのだから。


 今日は、走りの月の第十七、月陰の日。

 アデリナが何者かに襲われて、治療院に運び込まれたのは、およそ十日前。走りの月の第六、草木の日の夜遅くだったという。そして意識を取り戻したのが、ちょうど一週間前、つまり走りの月の第十、月陰の日の出来事だった。

「ええ、もうすっかり元気になりましたわ。おかげさまで」

 若い巫女に微笑みかけるアデリナ。

 目覚めた直後は右半身に少し麻痺があって、右脚を引きずるようにして歩いていたのだが……。今は歩行も普通に戻り、麻痺や痺れどころか、違和感すら完全に消えていた。

 ある意味、こうして裏庭を掃除することが、アデリナにとってはリハビリにもなっているのだろう。若い巫女たちの担当にお邪魔させてもらった結果と考えれば、「おかげさまで」は単なる社交辞令ではない、というのがアデリナの認識だった。

 だが、勇者様への想いを込めて行うべき庭掃除を、リハビリ扱いしてしまうとは、自分は何たる不心得者ふこころえものなのか。そんな反省も心に湧いて、アデリナは言葉を付け足す。

「今日は月陰の日ですからね。昨日は休日で参拝客も多く、その分、寺院の敷地も汚れたかもしれません。いつも以上の気持ちを込めて、丁寧に掃きましょう」

「はい、アデ……。いえ、お姉様!」

 若い巫女が間違えそうになったのを、敢えて気づかぬふりで、アデリナはスルーしたのだが……。

 内心では、少し複雑な想いだった。

 ああ、自分は本当に『アデリナ様』と呼ばれていたのだな、と。


 アデリナの「すっかり元気になった」というのは、あくまでも肉体の話に過ぎない。実は彼女は、ここ半年あまりの記憶を、完全にくしているのだった。

 ある程度の期間の意識不明を経て記憶喪失になるというのは、この世界ではしばしば見られる現象であり、勇者伝説の中にも、それらしき記述が存在する。その当時から、記憶は魔法でも取り戻せず、自然に回復するのを待つのみ、とされていた。

 アデリナも、知識としては知っていたものの、まさか自分がその状態になるとは思わなかった。しかも目覚めた直後に『神託の巫女』扱いされて、たいそう驚いたものだった。

「……え? この私が?」

 この寺院が何人も神託の巫女を輩出していることは、アデリナが覚えている中にも含まれていた。しかし『半年前』の時点で記憶が止まっているアデリナにしてみれば、それは自分ではなかった。少し前に一人の神託の巫女が早逝したため現在は空位となっている、というのが、アデリナの現状認識だったのだ。

 信じられないという気持ちと同時に、勇者様から神託を授かることが出来るのであれば嬉しい、という気持ちもあったのだが……。

「……来ないわ」

 残念ながら、この一週間、一度も神託は降りてこなかった。

 結果、今のアデリナは『神託の巫女』ではなく、一人の巫女として扱われている。


 いや、アデリナの扱いが変わったのは、それだけが理由ではないのだろう。この寺院の運営形態が変わったことも、大きく影響しているに違いない。

 そう、アデリナが眠っている間に、寺院全体を揺るがすような大事件が起こっていたのだ。

 アデリナが襲われた次の夜に、巫女長カルロータ・コロストラが姿を消し、僧官長モナクス・サントスと『神託の巫女』の従者セルヴス・マガーニャが殺されたのだという。

「そんな……! カルロータお姉様が!」

 亡くなった二人よりもまず、敬愛する先輩巫女の失踪の方に、衝撃を受けてしまうアデリナ。

 ちょうどアデリナの事件もあったので、そちらも含める形で、この寺院には都市警備騎士団の捜査の手が入っており……。

 それによって判明したのは、カルロータの出自だった。寺院に入る前のカルロータが娼婦だった、という話を知らされて、アデリナは唖然とするしかなかった。

 勇者教は、別の世界から来たという勇者を『神』として崇めている。だから貴族や騎士であれ庶民であれ、この世界の人間は、勇者の前では等しく同じ、という立場をとっていた。その意味では、職業にも貴賎はない、と言いたいところだが、巫女には純潔を求めている関係上、さすがに巫女長が娼婦上がりでは問題があったのだ。

 アデリナ襲撃事件も含めて、モナクスやセルヴスが殺された事件は、出自を知られたカルロータの犯行ではないか、と疑われているのだが……。

 アデリナは今でも、カルロータの無実を信じている。


「お姉様、そろそろ終わりにしませんか?」

 色々と回想しながら庭掃除に励んでいたアデリナは、若い巫女から声をかけられて、ふとその手を止めた。

 確かに、もう裏庭は掃除し尽くしたようにも見える。ならば……。

「そうですわね。あなたがたは、どうぞ本殿にお戻りなさい。私はもう少し、おもての方まで掃除してきますわ。ほら、先ほども申しましたように、今日は月陰の日ですから」

「お姉様が掃除なさるのでしたら、私たちもお供いたします!」

 そちらは担当ではないのだが、先輩が言い出した以上は後輩も従わざるを得ない、と考えた者たちもいるらしい。

 アデリナは何人かの若い巫女たちを引き連れる形で、今度は、石畳の参道の辺りを掃除し始めるのだった。


 敷き詰められた灰色の石の隙間には、小さなゴミや埃が挟まっている。それを丁寧に掃きながら、アデリナは、ふと顔を上げた。

 入り口の寺院門が視界に入る。

 寺院門は独特の形状をしており、縦横の太い棒を組み合わせた、シンボルマークのようなものだった。どこの寺院にも設置されている寺院門だが、それぞれの寺院の責任者――つまり僧官長――の髪と同じ色に塗られる、というのが慣例になっていた。

 アデリナの知るかつての寺院門は、モナクスの髪色に合わせた、渋いモスグリーン。だが眠っている間に、深みのあるコバルトブルーに変えられていた。

 モナクスが亡くなり僧官長が新しくなった――この寺院の者が内部昇格したのではなく中央本部から派遣されてきた――と聞かされても、あまりピンと来なかったが、初めて青い寺院門を目にした時、ようやくアデリナは実感できたのだった。


「あれを目にする度に思ってしまう……。色々と変わってしまったのね……」

 複雑な表情で、小さく呟くアデリナ。

 それを耳にした若い巫女が、アデリナに軽く笑いかける。

「お姉様がもう神託の巫女ではない、ということの方が、私にとっては、驚くべき変化ですわ」

 続いて彼女は、少しだけ寂しそうな表情を見せた。

「お姉様……。神託の巫女として過ごした日々のこと、全く覚えておられないのですよね?」

「ええ、残念ながら」

「では、あのお客様たちのことも……」

「ええ、それも全く……」

 アデリナは思い出せないのだが。

 目覚めた後で、この短髪童顔の巫女から、そのような出来事があったという話だけは、何度も聞かされていた。

 神託の巫女として活動する中で、一度、解釈に悩む神託があったのだという。街の占い屋に相談した結果、ちょうどアデリナが今日のように庭掃除をしていた時に、その占い屋が、一人の少年を連れて訪ねてきた。

 アデリナが来客に対応する際、この短髪童顔の巫女が、少し手伝ってくれたらしい。その関係で、彼女は他の者より詳しい事情を知っているのだった。

 占い屋たちとの会見の後、アデリナは本当に嬉しそうに、色々と彼女に喋ったそうだ。最もアデリナが喜んだのは、少年からプレゼントをもらったこと。そのプレゼントは、勇者様の世界のお守りを模したもの――勇者様の世界の文字で『病気平癒御守』と書かれたもの――だったという。

 しかし今となっては、この話を若い巫女から聞かされても、アデリナには現実感が全くないのだった。

「でも、構いませんわ。神託の巫女ではなくても、勇者様にお仕えする巫女であることに変わりはないのですから」

 そう言って。

 アデリナは、若い巫女に微笑み返すのだった。


 そう、アデリナにしてみれば、自分が神託の巫女だったと言われても、もはや夢のような話。ある意味それは分不相応であり、一人の巫女に戻った現在の方が幸せなのかもしれない、とさえ思う。

 だが、この寺院の者たちが「アデリナは神託の巫女だった」と口を揃えて言う以上、夢ではなかったのだ。それに、聞かされた話は現実だったとアデリナも認めるしかないような、証拠の一つが手元に残っている……。

 そう考えながら、懐に手を入れるアデリナ。そこには、肌身離さず持ち歩くようにしている、例の『勇者様の世界のお守りを模したもの』が入っていた。

 勇者様の世界のお守り。特に、病気平癒を願うお守りだったという話だから……。

 もしかすると、意識不明の重体だった自分がこうして回復できたのも、この勇者様のお守りのおかげかもしれない。それこそ、勇者様の御加護なのかもしれない。

「勇者様、ありがとうございます」

 そう口にすると同時に。

 このお守りをプレゼントしてくれたという少年に対して――もはや顔も思い出せない彼に対して――、アデリナは心の中で、深く感謝を捧げるのだった。

   

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