第三十一話 巫女の想いに応える仕事(前編)

   

「敵襲だって? 何を言ってるんだい」

 ガラスが消えて窓枠のみが残された窓へと、カルロータ・コロストラは近づいていく。

 入り込む夜風を頬に感じながら、外の景色に目を向けると、視界に入るのは小さな庭。『奥の庭』とも呼ばれるそこには、左右に一本ずつ植えられた大木と、こじんまりとした茂みしかなかった。

 この庭は、モナクス・サントスのお気に入りの場所。それくらいは、彼の情婦であるカルロータも心得ていた。それどころか、ちょうど建物に挟まれて人が入って来にくい場所であるのをいいことに、満月の夜、庭に出て二人で愛を交わしたこともあった。

 その時ほどではないが、今だって、よく晴れた夜空だ。星と月が輝いており、昼間よりは明らかに暗いものの、ある程度、庭の様子は見て取れる。いやむしろ、昼とは見え方の違う夜の庭園が、カルロータには、乙に感じられるくらいだった。

 小さな庭を見回した彼女は、セルヴス・マガーニャの方を振り向いて、馬鹿にしたような口調で告げる。

「襲撃者なんて、どこにも見えないけどねえ? あたしの目に映るのは、風流な庭だけで……」

 しかし、その瞬間。

 夜風に紛れて、何かがヒュッと飛んできて、カルロータの後頭部に絡み付くのだった。


――――――――――――


「ヒット……」

 庭に生えた大木の枝の上で、みやこケンが小さく呟く。

 彼は今、カルロータに向けて、ルアーをキャストしたばかりだった。

 ケンが復讐屋の仕事において武器として使っているのは、自分の世界から持ち込んだルアー竿ロッド。普段はゲルエイの部屋の押し入れに保管されているものだ。

 ルアーに付いている針は、普通のエサ釣りで使われるものとは大きく異なる。トリプルフックといって、この世界の人間が見れば、小型の鉤爪にすら思えるような形状だった。しかも一つのルアーに括り付けられているのは、一つではなく複数のトリプルフック。

 ケンはキャストの正確さに自信を持っており、うまく狙えば、これで相手の喉首を搔き切ることも可能だろう。だが、今夜の会合でもサポート役に徹すると宣言したように、敢えて致命的な箇所は狙っていなかった。

「僕の役割は、標的を一人、庭へ引きずり出すこと……」

 自分のやるべきことを確認するかのように、敢えて声に出してから、ケンはリールを巻き始める。

 本来ならば、さすがに人間一人の体重には耐えられない釣り糸だが、あらかじめゲルエイの強化魔法コンフォルタンで強度を高めているため、糸が切れる心配はなかった。

「大物ゲットだぜ……」

 つい口癖が飛び出すが、その声に、いつものような陽気さは感じられない。

 それでもケンは、リールを巻き続けた。リールから伸びる釣り糸、その先にあるルアーが、見事にヒットしているのは……。

 カルロータが長い緑髪を頭の後ろで結わえている、ちょうどその部分。いわば、髪の塊だった。


――――――――――――


「痛い、痛い! 何するんだい! 髪は女の命だよ、やめておくれ!」

 髪に何かが絡みつく感触に続いて、今度は、その髪を引っ張られるような感覚。

 カルロータは悲鳴を上げるが、それを目にしたモナクスもセルヴスも、ただ唖然とするばかりだった。

 男たちの目には、カルロータを引っ張ろうとする存在は見えていない。いくら星や月が出ていようと、昼間ほど明るくはないため、釣り糸は夜の薄暗さに紛れてしまう。また、ルアーそのものは小さい上に、ちょうどカルロータの髪の中に埋もれていた。

 だから。

「おい! 何をやっているのだ、カルロータ!」

 と、モナクスは声をかけたのだが。

 その間にもカルロータは、見えない何かに引っ張られるようにして、ガラスを失った窓の方へと引きずられていく。両手で頭を押さえて足をバタバタさせる彼女の姿は、滑稽にも感じられるほどであり、こんな状況でなかったら、パントマイムを見せられているのか、と思ってしまったかもしれない。

 しかし。

 そんな悠長な場面ではなかった。

「痛い、痛い! 誰か、止めておくれ!」

 相変わらず叫び続けるカルロータは、もう上半身が、窓の外に出てしまい……。


――――――――――――


 建物の壁に、ピタリと張り付くくらいに接近して。

 モノク・ローは、しゃがみ込んだ姿勢のまま、執務室の右側で待機していた。

 そして。

 カルロータの体が半分、窓から姿を見せた瞬間。

 バッと立ち上がって、モノクは走り出した。

 壁に沿って、執務室の左側へと向かって。

 当然、進路の途中には、まるでモノクを邪魔するかのように、カルロータの上半身が存在しているのだが……。

 それは障害物ではない。むしろ、目標だった。

「貴様も俺の標的だ」

 すぐ目の前のカルロータくらいにしか聞こえない、ごく小さな声。

 呟くモノクの右手には、鈍い輝きを見せる、黒い鉤爪。

 そして、カルロータのそばを通り過ぎる一瞬。

 モノクは彼女の喉を掻き切って、そのまま止まることなく、反対側へと走り去るのだった。

「依頼は実行された。まずは一人……」

 と、小声で宣言しながら。


――――――――――――


 何が起こったのか、一瞬、モナクスには理解できなかった。

 かろうじて、視界の右から左へと、何かが横切ったように思えた。一陣の風が吹き抜ける勢いだったが、風ならば目に見えるわけもない。ならば人影だろうか……。

 だが、そんな思考を巡らす余裕はなかった。

 仰向けで、上半身を庭に突き出しているカルロータ。その喉元からプシューッと赤い血が噴き出す様を、視界の中央で捉えてしまったのだから。

「カルロータ!」

 モナクスは、慌てて彼女に駆け寄るが……。

 当のカルロータは、噴水のような出血にもかかわらず、クワッと目を見開いたまま、悲鳴一つ上げていない。

 脈を確かめるまでもなく、絶命しているのは確実だった。

「カルロータ……」

 ただ虚しく彼女の名前を口にするしか出来ないモナクスは、

「どいてください、モナクス様」

 セルヴスに呼びかけられて、言われるがまま、カルロータの亡骸から距離を取ってしまう。

 すると。

「イアチェラン・グラーチェス・フォルティテル!」

 強氷魔法フリグダを詠唱するセルヴス。

 大気に含まれる微量の水分が、寄せ集められて氷となり、死んだばかりのカルロータを取り囲む。そこで終われば氷の棺だろうに、残念ながら彼女の遺体は、氷塊に閉じ込められると同時に、凍りついて砕け散るのだった。

「な、何をする!」

「障害物を取り除いただけですぜ、モナクス様」

 驚いて振り向くモナクスに対して、答えるセルヴスの声は、冷静を通り越して、むしろ冷酷に聞こえてしまう。

「出口を塞がれたままでは、邪魔じゃないですか。ほら、カルロータ様のかたきを取りに行くのでしょう?」

 言われて、ハッとする。

 確かに、愛するカルロータの命を奪った曲者は、まだ『奥の庭』にいるはずだった。

 それに……。

「ああ、そうだ。そうだったな」

 視線を落として、自分の右手を見る。

 ちょうど、机の下の騎士剣を掴んだタイミングだったため、まだ、それを持ったままだった。

 ならば、この剣で……!

「お前も来い。魔法で私を援護しろ」

「もちろんです、モナクス様」

 セルヴスがニヤリと、悪人面あくにんづらに笑みを浮かべた。


 セルヴスを後ろに従えて、モナクスは、四角い穴と化した窓をくぐって庭に出る。

 毎日のように眺めてきた、小さな庭園。改めて見回すが、曲者が隠れている様子は見当たらなかった。

 そもそもカルロータ殺害は、セルヴスが魔法で迎え撃つ暇もないほどの、一瞬の早業だったのだ。

「もしかしたら……。犯人は、既に走り去って、いなくなってしまったかも……」

「いや、それはないでしょう。まだ、そこら辺に隠れていますぜ」

 敵の狙いがカルロータ一人のはずがない、と判断できるセルヴスとは異なり、モナクスは、まるで何もわかっていなかった。

 ただ、こういう場面は殺し屋であるセルヴスの方が専門なのだと考えて、とにかく彼に従おうと思っていた。

 だから。

 この庭に敵は隠れている、という前提で、もう一度、隅から隅まで見回してみる。

 夜ではあるが、真っ暗というわけではない。それでも襲撃者にとっては、薄暗い中、慣れない場所で行動するのは困難なはず。逆に自分にとっては、勝手知ったる庭であり、いわばホームグラウンド……。

 そう思いながら、何度目かの視線を往復させた時だった。

 右の大木に隣接した茂みが、わずかに揺れる。

「見つけたぞ! そこにいたのか!」

 そちらに向かって、モナクスは走り出した。


――――――――――――


「愚かな奴め!」

 心の中で思うだけでなく、セルヴスは、その言葉を口に出していた。

 彼が『愚か』と思ったのは、茂みを揺らした敵のことではない。慌てて駆け寄るモナクスの方だった。

 敵の居場所が掴めたならば、たとえ姿は見えずとも、その辺り一帯に魔法を叩き込めば、それで終わり。だが、これではモナクスも巻き込むことになるから、魔法は撃てないではないか!

「それとも……」

 いっそのこと、もうモナクスは見限ってしまおうか。雇い主であるモナクスを、もしも巻き添えにして構わないのであれば、この場に隠れている連中を倒すことは容易……。

 そこまで考えた時だった。

「あんたの相手は、そっちじゃないよ。このあたしだ」

 背中から浴びせられた声に、ガバッと振り返るセルヴス。

 すると、反対側の大木の陰に、半ば隠れるようにして、一人の女が立っていた。

 月明かりと星明かりだけでは、ハッキリと顔は見えない。だが、特徴的な帽子とローブは、見間違えようがなかった。

「やはり貴様、連中の一味だったのか!」

 それは『神託』の件で寺院を訪れた女占い師、ゲルエイ・ドゥだったのだ。

   

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