4 黒栖居宇子はジレンマに囚われる。




 特に何事もなく、黒栖くろす居宇子きょうこは昼休みを迎える。


 三年生の補習授業は午前までで、午後からは自由だ。帰るもよし、図書室や自習室などで勉強するもよしである。

 そのため実質、居宇子の戦いはこれで終わったようなものなのだが――


名白なしろさんが帰らない……)


 お弁当を持ってきている時点で察してはいたが、どうやら午後まで粘るつもりのようだ。

 あるいは、そのつもりだったのか。


 昼休み、中庭の片隅で居宇子は名白と昼食をとっている。


「はあ……」


 と、隣で自身のお弁当をつつく名白がため息をこぼした。


「…………」


 もう何度目だろう。食欲もないようで、箸もあまり進んでいない。

 名白の横にある二つ目の弁当箱には、未だに例のチョコが収まっている。


(私の計画が功を奏した……、喜ぶべき事態なんだけど――このジレンマ……っ)


 笑ってはいけないのだが、口の端には隠しきれない喜びが滲み出る。

 いっそ落ち込む名白を見て心から喜べたらいいのだが、居宇子はそんなサディストにはなりきれないし、どうしても友人として胸が痛む。心を鬼にしきれない。


 それに、素直に喜ぶにはまだ懸念が多い。


逢羽あいばくんの靴箱にチョコを入れることが出来なかったのは確かなようだけど、当の逢羽くんは私が入れたチョコをどうしたのか……)


 教室にやってきた逢羽は、チョコらしきものを一切手にしていなかった。


 玉砕した(させた)後輩からの報告によれば、その告白をきっかけに、検問によってチョコを奪われるくらいならばと多くの女子生徒が逢羽に直接チョコを渡そうとしていたという。

 校門前で起こった告白ラッシュ……後に伝説となるであろう、逢羽悠里ゆうりがモテることを証明する出来事だ。

 それに便乗できないのが名白の勇気のなさというか奥手なところだが、便乗しないからこそ、その気持ちがいかに純情かを物語っているともいえる。


(ともあれ、逢羽くんはものの見事に全ての告白をさばき、一切チョコを受け取らなかった……ある意味、勇者よね……)


 そんな逢羽が、である。女子からモテていることは明らかなのに、居宇子の知る限り、彼はこれまでチョコをもらったことがないらしい。

 そして、本日居宇子が仕掛けたチョコも、どうやら逢羽の手に渡っていない様子……。


(休み時間に靴箱を確認したけど、チョコは消えていた……放置した訳じゃない。かといってゴミ箱に捨てるような人でなしではないはず――やっぱりこれは以前風の噂に聞いた――『逢羽くんファンクラブ』の仕業なのかしら……)


 逢羽に好意を寄せる女子たちで結成された、お互いの抜け駆けを許さないよう相互に監視・妨害する組織――ファンクラブ。

 中には逢羽がモテることを妬み、そのチョコを奪う男子も含まれているかもしれない――「チョコを渡さない」という一つの目的に集った、不特定多数の何者かたち。


 そうした第三者によって、逢羽の靴箱に入れた居宇子のチョコは処理されてしまったのだ。逢羽はきっと、靴箱がチョコで埋まっていたことにも気付いていない。


(まあ気付いていようがいまいが関係ないわ……結果として名白さんはチョコを渡さなかった。怪しい連中に名白さんのチョコが処理されずに済んで良かったわ)


 名白のチョコを逢羽に渡さない、という点において居宇子とファンクラブの目的は共通しているものの、たとえ逢羽宛てであっても名白のチョコは居宇子にとって特別なものだ。赤の他人に処理されたくはない。

 場合によってはこちらにも対処する必要があるものの、


(まあ昨年は名白さんもチョコを渡せたのだから、ファンクラブは放課後まではカバーしきれていないようね。……チョコのストックはあるし、今は考慮しなくてもいい。私が今、考えるべきことは……)


 隣で憂鬱に沈んでいる友人にどう接するか、だ。


(玉砕していく女の子たちを見て、相当ダメージを受けたみたいね……。逢羽くんほど競争率の高い男子もいない。だけど――)


 逢羽悠里は名白ゆきのことが好きだと、二人のことをよく見ている黒栖居宇子は知っている。


 名白が直接チョコを渡せば、逢羽はそれを確実に受け取る。

 自分からアクションを起こせない意気地なしの逢羽悠里だが、チョコをもらえば話は別だ。


(ホワイトデーを口実に、名白さんとのデートを企むはず……それくらいのやる気はあるでしょう。そうなれば、卒業後も関係が続く――だから絶対に、チョコは渡せない)


 そのために、今どうすべきか。

 名白の傷心に付け込んで、逢羽のことを諦めるように説得するか。失恋したのだと言い聞かせれば、今なら名白の気持ちをうまく誘導できるかもしれない。


(そうやって、逢羽くんのことを諦めさせることが出来れば――)


 しかし――それが出来ないのは、居宇子が一番よく知っている。


 時に、諦めて別の道を行くことが推奨されるだろう。かなわない夢を追い続けるよりも現実を見るべきだ、と。そうして諦めることを美談にする向きもある。

 だけど、そんなものはフィクションだ。

 諦められる程度の気持ちなら、それはその人にとって所詮その程度の気持ちだったということ。


 諦められないからこそ、現実を思い知ってつらくなる。

 それでも諦めることが出来ないなら、それが人生うんめいなのだ。

 そうして破滅するのなら、それがその人の運命じんせいだったということ。


 なればこそ――


 自分のこの気持ちを、嘘にしないために。


「…………」


 ――しかし、だ。


 それは、居宇子の心情として、許せないことでもある。

 間接的ならまだしも、直接名白を騙したりするのは気が引けるのだ。


 好きだから――嘘をつきたくない。傷つけたくない。

 だけどそうしなければ――頭では分かっている、それが論理的に考えて正しいと分かってはいても、感情人間はそう簡単にはいかない。


 ――甘すぎませんか。


 ぐるぐるぐるぐる、気持ちは渦を巻く。


「ごめんね」


 ふと、名白がもらした。


「え? ……何が?」


「せっかく、一緒にチョコつくってくれたのに……。なんか、渡せそうにないなって……」


 居宇子としてはそれで全然構わないどころかむしろ大歓迎な結果なのだが、素直に笑うのはさすがに憚られる。

 それから、渡せなかったチョコの処遇も気になるところ。


「そのチョコ……どうするの? なんなら――」


 私がもらおうか、と言いかけて――そう提案しても不自然にならない文脈の構築に思考を巡らせようとして――


「……でも、渡してどうするの」


 思わず、口を衝く。


 今度は名白が「え?」と顔を上げる番だった。


 今さら口はつぐめず、居宇子は俯きながら独り言のように告げた。


「昨年も、結局渡しても何も進展しなかったじゃない。そもそも、渡すことが目的なの? そうじゃないでしょう。本題は、その先にある」


 バレンタインというイベント自体を楽しむ向きもあるだろうが、『本命』を用意するからには、チョコを渡すことは「手段」であって「目的」ではない。


 その先を――チョコを渡すことをきっかけに告白し、付き合うことを目的とするなら――それを見据えるなら、


「チョコを渡すことくらい出来ないんなら、〝その先〟なんて無理なんじゃないの」


 うじうじと悩む名白を見ていられない――見たくない。


 居宇子の知る名白はもっと大胆で、恐れ知らずだ。昨年没収されたにもかかわらず、今年もチョコを、しかも検問を抜けて学校に持ち込んだ。名白にはそういう打たれ強さがある。


 それなのに、逢羽に対しては臆病だ。

 その臆病さは、気持ちの強さの裏返しだから――それだけ彼の存在が、名白にとって特別だということを表しているから。


 居宇子をイラつかせるのだ。


 逢羽なんて、一般的な家庭に生まれた、成績や運動能力もごく一般的で、ただ顔がいいだけの少年なのに。

 彼にはきっと先のビジョンなんて何も見えていない。

 今は名白のことが好きでも、中学を卒業し高校生になれば、その気持ちも変わるかもしれない。新たな出会いがあって、他の人を好きになるかもしれない。


 仮に付き合うことになったって、うまくいくとは限らないのに――


 でも、だからこそ――先の見えない〝今〟の感情だから、こんなにも真剣に悩むし、落ち込むし、全力になるのだろう。

 先がどうあれ、今の名白にとっては逢羽にチョコを渡すことが……今そうしたいという感情を満たすことが、名白にとっての幸せなのだ。


 それならば……黒栖居宇子が名白ゆきのことを好きだというのなら、彼女の今の感情を応援することが、居宇子の気持ちの証明になるのではないか。


 考えるほどに苦しくて、思考と感情がかき乱される。


 私はどうしたいのか――「好き」の理由を考える。


 友人としてはもちろん、一人の人間として――恋愛対象という意味で、居宇子は名白のことが好きだ。

 好きという気持ちに理由はいらないというが、しっかりとした理由がないと、それを意識していないと、居宇子の恋は「常識」という諦めに流される。自分の恋は実らない、名白の幸せを思うなら、その恋を応援するべきではないかと。


 今がまさにその状態だ。


 ――どうなりたいのか、その先のビジョンを再確認する。


 そこに逢羽の存在は要らない。

 だけどこのままじゃ、名白の心の中に彼の存在は残り続ける。


 どうしたらいい。どうしたい?


 今――名白ゆきの『友人』である黒栖居宇子は、この状況にどう対応すべきか。



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