2話≠ツギハギの女の事
「おう、おはよう」
「えっ、ああ、おはよう」
顔を洗いに来た井戸の前で、寝巻きのままビクリとしたのは妹のリサ。寝ぼけ眼の整った顔が戸惑いに歪む。
「いやー、何か昨日頭打ったせいかな?口が軽くてなー!言いたい事がスルスル出るんだよな!爽快爽快!」
「……あっそう」
やっぱり警戒感を隠さないリサは手にしたタオルでガシガシと顔を拭うと足早に立ち去ってしまった。
「…………」
これで良い。昨夜一晩考え抜いた結論、ハルトが導き出した答えがこれだ。
(俺は柏木春人じゃない。ベルンハルトだ)
どういう訳か、死んで目覚めたこの世界で、自分はまったくの他人だった。しからば、これもどういう訳なのか風貌は日本に居た時の自分と瓜二つ。違ったのは自分の中に二人分の記憶があるくらいのものだ。そこで春人ないしハルトが思った事は、ハルトに成りきる事だった。
(無理な感じは良くない、良くない)
うんうん、と一人頷くハルトは、成りきろうと思っても実際、妹との会話におけるハルトの反応がまったく再現出来ない。それもそのはず、春人の中にあるハルトは、その記憶があっても意思がなかったのである。これは本当に、他人の記憶だけをそのまま注入されたに過ぎない。
「善は急げってやつだな。俺は俺なりのハルトをやってやるよ、ハルト」
汲み上げた井戸水を見詰めながら、もう一人の自分への誓いを新たにハルトは勢いよく桶に顔を突っ込む。
「づめだっ!?」
忘れていた。今は冬だった。
────────────────────
「…………」
「な、なぁリサ」
「なぁに?お兄ちゃん」
「いや、あの……」
寒々しい紅葉の落ち葉が舞う中、最初にハルトが目覚めた?林道よりも遥かにましな整備された道を、ブラウンの外套を見に纏ったリサが先に歩いていた。時刻は昼下がり。散歩をするには贅沢な時間帯だ。そんな働き盛りの日本人めいた思考が横切るハルトは、
「そんなに離れなくても……いいんじゃないか?」
五メートルはあるだろうか。露骨に距離感を取って先を歩くリサに、兄妹としての提案をしていた。
「……あっそう?」
ハルトに指摘されてわざとらしく速度を緩めるリサに、ハルトは内心で感心する。
(わかるんだろうなぁ……俺がハルトであってハルトじゃないって)
それは妹として、兄と過ごした時間のなせる技か。いずれにしても、リサがハルトへ向ける疑念の様なモノは、ハルトにも疑いのないレベルで感じられていた。
「しっかし、母さんにもいいって言ったのに、医者に見てもらってこいなんてよ」
今朝方、古城から続く道の先にある集落へ食糧の買い出しへ、ついでに医者へ見てもらってはと言い出したのは母親だった。
実際自らに起きたあり得ない現象の原因は当のハルトにもわからないものの、現象を事実として理解するには至っている。その上でそこらの医者に見てもらった程度で解明されるだけの簡単な問題だとは到底思えない。
なにせ異世界の他人の体に、乗り移っている人間なんて誰にも想像さえ出来やしないだろうから。
「医者っていうか薬屋だけどね。いいんじゃない?一応見てもらえば。私も気になるし……」
そう言って若干俯く《うつむく》ブロンドがかった茶髪の少女は、窺う様に後ろのハルトに視線だけを向けた。
ふと、視線の合った兄の血色の良い微笑みに、ビクリと顔を前に向けてしまう。
(……なに!?なんなの!?もう!)
普段なら絶対に見ない兄の表情に、リサは思わず早足になって逃げ出したくなる。実際彼女はまたも兄を残して前へ 前へと距離を取ってしまっていた。
「おおーいリサ、おーいぃ……」
遠巻きに小さくなるハルトの声を無視してリサは一人、紅葉の舞う林道の中をさっさと歩き去ってしまった。
(絶対、違う!)
ベルンハルト・ブレイズ・ブランドナーの兄妹として生を受けた少女は、その存在において疑念を確信に変えた。アレは兄ではない。兄の様な誰か、だ。頭を打ったとかそんな陳腐な訳を鵜呑みにはもう出来ない。何故なら、
「お兄ちゃんは。お兄ちゃんは私の事、リサって呼んだ事無いじゃない……」
開けてきた林道の先を見据えながら、リサは険しい表情で一人呟いた。
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アレグリア共和国は森林地帯が国土を緑色に染める程に占めており、都市部や街を除き、点在する集落の主は森を切り開かれて造られたものが多い。ここ、ハーステッド村もそんな数多く存在する森の中の集落の一つであった。
「まーぁ、なんて素朴なファンタジー……」
知識としては記憶にある光景に、ハルトはしかし感嘆を隠せない。どういう訳か乗り移った異世界人、ハルトの経験を脳内に蓄えていたとしても、中身はやはり日本人、柏木春人なのである。目の当たりにするどこか現実離れした村の家々の造り、村民の衣服、見たことも無いような露店の食材に一々視線を止めずにはいられない。
(まるで待ちに待ったゲームの続編をプレイしてる気分みたいだな、これは)
改めて考えてみると視界に入る全てが異様に思えるが、情報として理解してもいる。しかしどこか初見の様な興味を与えてくるのだ。そう、これは中身が分かっている宝箱を開ける感覚とでも言っても良い。期待感と結果が同時に寄せてくる不可思議な感覚だった。
「しっかし我が妹はどこへいったんだかねぇ……」
リサの姿はハルトの傍には無い。林道でハルトを睨み付けた(ハルトにはそう思えた)リサは、小動物の様な素早さで瞬く間にハルトの眼中から消え去ってしまっていた。無論道の行き先はこの村しかないのでどこぞで油を売っているとハルトは思っていたのだが……。
(リサが薬屋ってた薬草館も中には居なかったしな……買い出し予定の肉屋にもいねぇし)
脳内のベルンハルト・ブレイズ・ブランドナーの記憶を頼りに思い付く場所は潰してみたのだが、やはりどこにもリサの姿は無かった。
(金はあいつが持ってるし、先に買って帰ったって事でOK?……うーん?)
首を捻るハルトは、リサが一人で買い出しをするにしても母親から頼まれたブルームのバラ肉の塩漬け(ブルームはハルトの脳内で豚に似た姿で再生された)はおよそ五キロ、その他にも生活雑貨など細々ある。彼女がおよそ一人で持ち帰るのはかなりの骨なはず。その上、ハルトは薬屋にも入っていない。リサがハルトを放って姿を消す理由がまったくわからない。
「入り口で待ってるしかないか……はぁ」
せっかく異世界交流の第一歩と、密かに買い食い等々企んでいたハルトは肩を落としてもときた道をとぼとぼと戻り始めた。ふと、
「あぁ!?」
思わず声に出してしまった自分に一瞬戸惑い、しかし視線の動きだけは止める事が出来なかった。
ふわりと舞った小風に煽られ、めくれた目深なフードを被った女の顔に、一秒にも満たない遭遇に、ハルトは頭をガツンと殴られた様な衝撃を受けた。
その顔を、その紅の髪色を、その顔面を走るツギハギを、その光景がトリガーとなってハルトの記憶の机引き出しを爆破し、溢れ出る様にハルトの表情を歪めて変えていく。
思わず突き出たハルトの一言に、頭まで覆うローブに身を包んだ女が立ち止まり、ハルトが生唾を飲む暇も無く、
「春人?」
正真正銘、日本人柏木春人その人の名を口にしながら振り返ったのである。
「り、理恵子?」
何の事か、咄嗟に名前を呼ばれてハルトの口から溢れでた言葉は、生涯二度と会うことのないであろうと思っていた女の子の名である。
しかし虚を突かれた声高な春人の反応とは裏腹に、その時のハルトの表情と言えば何とも筆舌に表し難い、剣呑とした殺気にも似た不穏さをはらんでいた。
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