at noon

1話≠キノコ狩りでの事

「もう、お兄ちゃん!だから昨日の雨でヌメヌメしてるから気を付けてって言ってるのに……」


「ってぇ……」


 ──そこは、木漏れ日のちらつく森の中だった。辺りには苔の生えた岩が地面から生え湿った落ち葉が敷き詰められ、いかにもジットリとした湿気をはらんでいた。


「あーあ、服破けちゃってんじゃない?お母さんに怒られるよーだ。まったく、人の話し聞かないんだからお兄ちゃんは」


「……うげぇ、口に泥入った」


「きたなッ!って!吐き出すな!あたしに向かって!もう!」


 べべべべーーっと、ヨダレ混じりの泥を妹に撒き散らす青年は、尻についた土を払いながらふと、目の前の少女に目をやる。


「ったくもう……!」


 年の頃は十の中頃か、それよりもう少し若いか。華奢な体つきに凹凸おうとつの無い胸。金髪とまではいかないが、それに近い茶髪を短いポニーテールで纏めた少女は、


「あん……?なに見詰めてんのよ。その二十にもなって親のスネカジリの穀潰しの死んだ魚の目で見られると冗談抜きで気持ち悪いよ。お兄ちゃん」


「あ、ああ、悪い。お兄ちゃんの唾液入りの愛泥液が大事な大事なお前の体に付いてないか確認してたんだ。安心しろ、お前の体は純心無垢のままだ」


「うわわわわ、まじでなに言ってんの?頭でも打ったんじゃない?……いつもだったらごめん、の一言なのに……」


 茶髪の少女は訝しげに青年を見上げてくる。その表情は見知らぬ他人に道を聞かれた時のようなものだ。しかしそれは、それとは微妙に違うのかもしれないが、青年の方も似たような表情をしていた。


「そうか?そうだな!ごめんごめん、あーあれだ!キノコは採れたしさくっと帰ろう!日が暮れたら戻れなくなるぞ!」


「じーーーーーーっ」


 声に出して凝視する少女を置いて、青年はさっさと歩き出す。


「ほら、リサ!行くぞ!」


「…………」


 リサと呼ばれた少女は、漫画めいた疑心暗鬼の表情をするすると真顔に戻し、逃げ出すように消え去ろうとしている兄の背中に向けてボソリ、


「……お兄ちゃんは行くぞとか言わない」


 呟いた。



────────────────────



 ──ここ、アレグリア共和国は、放牧と農業が主な産業になっているのどかな国だ。


 森林地帯が国土の三割を占め、国内に点在する街や集落も、森を切り開かれ周囲を木々に囲まれた造りのものが多い。


 そんな共和国の端に、集落から離れポツンとたたずむ城、と言えるのかどうか、微妙にこじんまりとした建築物があった。その城へと続く林道を、かの二人は距離感を保ちつつ歩く。青年とリサと呼ばれた少女は、開け始めた林道の中、


(リサ……?リサって誰だよ……いや、リサはリサか……?)


(なんか変……転んだ時にやっぱり頭でも打ったのかな……?)


 口に髪の毛が入り込んだような、歯のすき間にゴミが挟み込んだような、そんな違和感をお互いに感じていた。


(落ちた……んだよな、俺は。頭からこう、グシャっと……うっ)


 およそ人生において体験しようのない衝撃を受けた頭部と、一瞬でブラックアウトした視界と意識。落下時の風が頬の肌を撫で行く感覚が、青年の脳裏に艶かしく甦る。


「う、うお、お、おぉ……」


 ふと、青年の口から嗚咽がこもれて涙が溢れ出ていた。


「え、なに?お兄ちゃん……?」


 いつもと違う兄の態度にジト目でいたリサは、目の前を歩く兄の涙声に慌てて駆け寄る。見上げたその顔はやはりいつもの兄のそれではないように思えて仕方がなかった。


「……大丈夫?どっか痛いの?お母さん呼んでこようか……?」


 立ち止まってうずくまり始めてしまった兄の姿に、尋常ならざるものを感じたリサは、さする様に背中に手をやり兄の様子を伺う。どこかおかしい。母親に頼まれて夕食に使うキノコを採りに行った矢先、落ち葉に足を滑らせて転んだ時からこれだ。やはり打ち所が悪かったのか……。


 やっぱり母親を呼んだ方が良い。そう思い立ちリサが林道の先にある我が家を見据えて立ち上がった時、


「り、リサ……俺は、春人、だよ……な?」


 うつむく兄の口から出た言葉は一体何の確認なのか、リサには理解し難い問い掛けだった。


「お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ!もうヤバイじゃん!なんかすごくおかしいし変な感じだよ!ちょっとここで待ってて!お母さん呼んでくるから!」


 これは一大事なのかもしれない。ただならぬ兄の豹変に助けを求めてリサは小走で走り出す。


「リサ!俺は、俺は……お前は?」


「もう!待っててよ!そこから動かないでよ!ハルトお兄ちゃん!」


 背後の兄に一目を置いて駆け出したリサは、小動物の様な素早さであっという間に見えなくなってしまっていた。一人取り残された青年は茫然と、黄色と赤に染まる夕陽、木漏れ日の空を仰ぎ見ながら顔を手で覆った。



──俺に、妹なんて、いない。



────────────────────



「大丈夫大丈夫、ちょっと頭でも打ったのかもしれないけど、今は何ともないし。ほんと、大丈夫だって」


「ならいいのだけれど……」


「ちょっお母さん!お兄ちゃん絶対変だって!あの時のお兄ちゃん、なんかこう、ぜんぜんいつもの感じじゃなかったし!」


 木造のテーブルを囲んで、まずはハルトと呼ばれた青年が肩肘をつきながら嘆息し、向かいの年の頃は四十、見方によっては 三十前半にも見えるブロンドの長髪を流麗に肩にかける女が心配気な面持ちでハルトを見やる。対してリサが、テーブルに手をかけながら反論していた。


 ここは、周囲を木々に囲まれた城、と言うには少々こじんまりとした古城の傍らにひっそりと建つ木造の平屋の中。三人が集まるリビングには暖炉の火がパチパチとはぜ、壁際に幾つか灯された蝋燭が薄ぼんやりと部屋を照らし出している。


「リサ、母さんが困るだろ。ほんとになんもないものはないんだ。俺は至って健康そのものだって」


 そう言って温かいココアの入った陶器のマグカップをあおるハルトに、


「見た!?聞いた!?あの万年無言無口のお兄ちゃんがこんな流暢に喋って!絶対絶対頭の中身がおかしくなってるよ!」


「まぁ、別に喋れない訳でもなかった訳だしね……」


 ハルトを行儀悪く指差すリサは、唇に指を置いて思案をするかのようなポーズを取る母親に猛烈に抗議する。


「お医者に見せるべきだよ!ペラペラベラベラ喋れるお兄ちゃんなんて、お兄ちゃんじゃない!」


「お前な……」


 ココアの痕を拭いながら、ハルトはやれやれと言ったていで傍らのリサに流し目を送った。


「うーん、でもお母さんは、ハルトがこうしてテーブルに座って私達と一緒に居てくれるだけで嬉しいわよ?お医者様の事は確かにそうだけれども、しばらくは様子見、なんてのも考えたいわね」


「う~~」


 母親に遠回しな反論を受け、リサはうつむきながら座り込んでしまう。そんなリサの姿を見て、母親っ子な妹の性格をハルトは反芻していた。


(リサは母さんには逆らえない。何故ならマザコンも良いとこの母親っ子なはずだからだ。いや、母親っ子だからだ)


 記憶が混濁していた。ハルトは自らが居るこの場へ続くおよそ二十年程度の人生の記憶を、まるでワンクールのドラマをぶっ続けで見通した時の様な(まず体験しようのないが)凄まじい記憶の処理作業に追われていた。何がどこであって、何がどうなったか。覚えていると言えば全て、経験した過去なのだが、覚えているだけであってただの映像のフラッシュバックに過ぎないそれは、臨機応変に紡がれる会話の流れの中では、あまりに応用の効かない引き出しの中の記憶であった。


(お兄ちゃんじゃ、ない、か……)


 その台詞を実の妹に言われてしまえばまさにお前は実の妹だったと称賛してもいいだろう。


 事実、ハルトと呼ばれた青年はリサの兄であり、兄でもなかったのである。


 記憶が混在していた。彼、ハルトは日本人柏木春人であり、アレグリア共和国末端にある集落の一村民である、ハルトでもあった。


 ──記憶が、感情が、水に落とした絵の具の一瞬の様に混じり切らないもどかしい状態にある。一体この齟齬感はなんなのか。


(俺が……二人いる……いや違う。二人だったのか……?)


 柏木春人としての記憶は先ほど脳裏に浮かんだ最期の落下であった。しかし、ハルトとしての記憶はただぬかるんだ落ち葉に足を取られて転んだものであった。一体これは。


「リサ……母さん……」


「なんだよお兄ちゃん」


「ん?」


 不服そうなリサがマグカップの取っ手を親指で引っ掻けながら、母親が小さく小首を傾げながらハルトを見やる。二人のその姿は昨日も、一昨日も見たものだ。けれでも、その時自分は何をしていたか……。


「……いや、なんでもない。やっぱ今日はもう寝るわ」


 そう言い残して席を後にしたハルトの後ろ姿にリサは困った様な溜め息を一つついて、


「……私のせいかも……」


 いつもと様子の違う兄に、森へ連れ出した自分の責任を感じてテーブルに突っ伏した。

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