ひらく

メモ

第1話 ひらく

 愛は、ラブの敬語が少しだけ苦手だった。ラブより早く生まれた愛は、「みんなから愛される子に育ちますように」という願いを込めて愛と名付けられた。その5ヶ月後に生まれたラブは、互いの両親の仲が良かったために安直に、そして軽々しく「じゃあうちの子はラブね」と名付けられたのだった。

「名前なんてただのラベルなのに、あんた達そんなものにこだわってんの?」

これは小学校時代、やはり名前のせいで揶揄われることの多かったラブの言葉である。冷静に言い放ち、一蹴していた。愛は傍で聞きながら「ラベル……」とラブの言葉を反芻していた。

「あんた達なんて英語にもなおせない面白味もない名前のくせに」

とも言っていた。煽り、そして嘲笑に近いものだった。ラブ曰く、変な当て字を使われていないだけマシなのだそうだ。そして中学に入る頃には、ラブをバカにする子も減り、ラブは人懐っこさと上手な猫被りを会得して平穏な日々を過ごしていた。ラブが小生意気になるのは、生まれる前からずっと一緒にいた愛と、近所に住む1つ年上の恭平の、心許せる2人の前だけだった。

 高校生になってもクラスは離れず、2人は文字通り、四六時中ずっと一緒にいた。登下校はもちろん、休み時間も放課後も、そして帰宅してからも晩ご飯とお風呂を挟んでお互いの家を行き来していた。行き来、と言っても、主にラブが愛の部屋に入り浸り、絵を描いている愛にもたれながらゲームをするだけだったが。

 頭の回転が愛よりずっとはやいラブは、マイペースな愛をよく嬲っていた。愛はそれに頼りない微笑みを浮かべたり、時折子どもレベルに反抗したりしたが、口答でラブに勝てたことは一度もなかった。そんな多弁家なラブが使う、距離を置いたような敬語が、愛はやっぱり少しだけ苦手だった。


 愛はペダルを漕いでいた。

 美術部に所属しているため、運動は滅多にしなかったが、何故か飛び抜けて身体能力は高かった。長時間走ったりすることも苦ではなかった。だから、愛は薄明るい通学路を、ひたすらペダルを踏みつづけた。暖冬のせいか、3月の下旬なのにもう桜が満開を迎えていた。

 いつもより2時間早い朝6時に登校した愛は、窓際で突っ伏しているラブを見つけ「やっぱりここにいた」と安堵した。ラブには、ごくごく稀にあることだった。何かあると朝早く学校に来ては、教室で一人過ごすラブの癖を、愛は長い付き合いのなかで無意識に理解していた。このときのラブは敬語を使うので苦手だったが、どうしても会わなければならないという想いのほうが強かった。隣に座ってもラブは目を閉じていたので、愛は寝ているのだろうと思い、自分も机に頬をつけ、じっとラブの寝顔を見つめる。

10分だろか、それ以上か。あるいはもっと短い時間か。愛は穴があくのでは、と思えるほどラブの顔を見ていた。

「どうしたんですか、こんな早い時間に」

目を瞑ったままのラブが口をひらいた。眠っていると思っていた愛は、驚きのあまり

「……なんと、なく?」

と何も考えずに答えてしまった。

「何で疑問形なんですか」

間髪入れずに呆れた声が返ってくる。

愛は返事をしなかった。教室に沈黙が訪れる。

「……エスパーかよ」

ラブの消え入りそうな声でさえ明瞭に聞こえてしまう静けさだった。

それでも愛は返事をせず、突っ伏したままもぞもぞと前を向くラブを見つめていた。重々しく開いた瞼から、瞳がのぞく。愛はラブの茶色くて丸い綺麗な瞳が好きだったが、このときは、色のない瞳だ、と思った。

「これがさ、いわゆる自然消滅なのかな」

ラブがぼんやりと、まるで独り言のように言った。愛は黙って目を閉じ、ラブの言葉に耳を傾けつつ、ラブと、少し歳の開いたラブの恋人について考えた。

「思ってより、ずっと好きだったみたい」

気付いてなかったのはラブだけだよ、と伝えようとして、やめた。そう言う代わりに、ラブが恋人を見るときの瞳を想い浮かべた。それはいつも燦然としていて、愛はそんなキラキラしたラブの瞳を見るのが大好きだった。

「もう会えないんだね。先生は、もう、この町にはいない」

 恋人の突然の引っ越しを知った一週間前のSHR。今日のように机に突っ伏し、みるみる色を失うラブの瞳を見ていた愛は、心のずっと奥の、どこよりも繊細な場所が、小さく音をたてた気がした。あの時から一度も、ラブは泣いていなかった。

「…もう、会えないんだね」

再度繰り返したラブの言葉に、愛はようやく瞼をひらいた。

「花見に行こう」

とだけ言う。

何の脈絡もない提案に

「…え?」

とラブは怪訝な顔をして愛を見た。

「桜が満開だから、花見をしよう」

愛はそう言うだけだった。

「今から…?」

「そう、今から。ついでにさ、ラブの恋人にも会いに行こう」

「むりだよ……。先生はここにはいない。それに、どの町に引っ越したかも知らないよ?隣町かもしれないし、もっともっと遠くの町かもしれない。居場所も分かんないのに、どうやって会いに行くの」

「この町にいる先生に会いに行くんだよ」

あまりにつじつまの合わない話に、ラブは「だからこの町にはいないんだって!」と声を荒げそうになり、一つ息を呑んだ。愛はよく、自分の頭の中だけで物事を整理する。そのくせそれらを言葉にしないので、会話が成立しないのだ。しかし最終的には話がつながるとこを知っているラブは、愛の説明を待つことにした。ゆっくりと愛が喋りだす。

「コンビニにも、神社にも、喫茶店にも観覧車にも、きっといる。ちゃんといるから、大丈夫。会えるよ」

「……」

「あの人はちゃんと、ラブの思い出の中にいるよ」

そう言った愛の言葉に、ラブの目から涙が流れ落ちた。堰を切ったように次々と溢れ出す大粒の涙を拭いもせず、ラブは静かに目を閉じた。

「今はまだ、会いに行けないけど、高校を卒業したら転任先を調べて、ちゃんと会いに行こうよ」

「うん。つぎ会ったら、ぶん殴る」

「うん」

「思い出の中の先生にも、何万回も謝ってもらう」

「うん」

柔らかな朝日が窓から差し込み、光の粒に包まれたラブが、目をあけ、そして、優しく微笑んだ。

「……ありがとう」

その言葉に愛は何も言わず、ただ頼りのない微笑みを浮かべた。急に恥ずかしくなって窓の外へ目をやる。そこには春の清らかな朝陽をうけて、粲粲と花ひらく、満開の桜があった。

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