後編



 急いで出て行った中年男の背を、少しだけポカンとしながら見送ると、少女は思わず吹いてしまった。


「プッ……、あんな慌てて走ってかなくていーのにサ」

 バカみたい――――惰性でそう言いかけたところで口を閉ざした。



「バカは……アタシの方、だよね……」

 自分を省みて憂い、こうべを垂れた。

 少女としては、走っていった中年男性が先ほどまで嗜んでいた僅かに残った苦いコーヒーのカップに視線を向けたつもりだった。


 しかし落とした視界が映し出したのは、自分のずぶ濡れの胸元。無意識に動揺が走ったのか、いつも足元を隠して見せない立派な双丘が軽くたゆんだ刹那、彼女は鮮明に思い出してしまう。




『もうお前にゃ飽きたんだよ。スタイルいーから、ちょっとばかし遊んでやろうと思っただけだってのにナニ本気になってんの、バッカじゃね? ハハッ!』





 それが、捨てられた・・・・・時の、彼氏の最後の言葉だった。


 相思相愛で、何もかも相性バッチシ。将来このヒトと結婚して幸せな家庭を築くんだと信じて疑わなかった。

 なので少女は料理を練習し、彼が好みだという服や髪型を積極的に取り入れ、男を悦ばせるワザを赤面しながら学んだりもした。


 いつしか女友達から料理上手と褒められるだけの腕前になり、常にオシャレに自分を飾れるようになった。

 趣味も広げ、小難しいニュースにも耳を傾け、どんな話題にもついていけるような、デキる女になろうと努力した。


 全ては彼のため。愛する彼のため。彼のためならアタシは何だってやれる!


 しかし、そんな健気な少女の恋心は、善良イケメンの皮を脱いで徐々に本性をあらわした彼氏によって、あっけなく踏みにじられた。 



『いいのかよ、こんな上玉?』

『ああ、女なんて腐るほどいるジャン? 今ちょーど新しいの引っかけてる最中だし…ま、存分に楽しんでよ、みんな・・・でサ』

『いやー、〇〇クンにはホント女おろしてもらってばっかで頭あがんねぇわー。マジ感謝だぜ』

『いやいや、それ言うならさ。イケメンっつーんでちょっとお利巧っぽい雰囲気してりゃ、ホイホイ熱あげてくれる頭とケツの軽い女だらけの世の中のおかげってもんでしょ。楽勝すぎて笑い止まんねぇし』


 ・


 ・


 ・


「――――ッ!!」

 少女はこの上なく嫌なことを思い出して強く歯を噛み、濡れた胸元の布地を握り締めた。

 

 本当にバカだった。あんなのに…あんな奴に惚れて尽くして。自分の人を見る目の無さに情けなくなる。


「………ぅっ、う………」

 自分の胸のふくらみごと押しつぶそうとするかのように、両腕をぎゅっと押し付ける。

 顔を覆う両手の下。涙がにじんで、流れるのを耐えるように少女の嗚咽が漏れた。


 と、その時――――――



 ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ


「ッ?! ……アタシのじゃ、ない…。オジサンのスマホ?」

 見ると彼が座っていた椅子の横の荷物カゴの中に、カバンが入っていた。


「……オジサン、慌て過ぎてサイフとかも置いていってたりしてんじゃないの?」

 いけない事だとは思う。けれど何かもうどうでもいい気分の少女は、彼のカバンを開けた。

 サイドポケットが振るえている。


「………。どーせ……」

 どうせ男なんて外見違うだけで中は皆いっしょでしょ?


 不信からそんな偏見を抱き、他人のスマホを覗く行為への罪悪感が薄まる。少女は振動し続けているスマホを躊躇うことなくカバンから取り出した。




「ただの広告メール……なんだ、電話じゃないんだ。………」

 勝手に操作し、メールを、SNS履歴を、アドレス帳を見る。

 おびただしい数の取引先会社の名が記載された連絡先や、小難しいビジネスのやり取りをした痕跡ばかりが覧につらなっていた。


「ナニコレ。オジサンってばマジメに仕事しすぎて引く―――……グスッ」

 長年の苦労と努力の証明。

 頭がユルいと自認する少女にさえ、それが感じ取れるオジサンのスマホは、ところどころ痛んでいて、年単位で機種変更していない事もわかる。


 映し出されるモノのどれを見ても、彼女には何が書いてあるのかチンプンカンプンだ。

 けれど見ればみるほど涙が出てくる。



 どうしてだろう、なんでだろう?

 頑張っている人、努力している人が報われないのは?


 どうしてだろう、なんでだろう?

 頑張りもせず、努力もしない人が好き勝手しているのは?




 普段の自分なら、きっと笑い飛ばして深く考えようともしない事。

 なのに今は、る。深く…どこまでも深く。



 ポタッ……、ポタ…ッ


「あれ、見えないや…オジサンのスマホ画面…あは、ヘンだな。…うっ、ぅう!」

 外の雨とは無縁のはずの、他に誰一人としていない喫茶店の店内で、少女の涙が滔々とうとうと流れ、スマホの画面へと降り注ぐ。


 あまりの心の苦しさに、なぜか少女は彼の飲み残しのコーヒーカップをおもむろに手に取り、一気にあおる。



 すごく苦い―――――それでも、彼女の心の苦しさは勝り、カラになったカップの中へと涙は落ち続けた。






 ・


 ・


 ・


「はぁ、はぁ、はぁ、ぜぇぜぇ、ぜぇ…げほっごほっ、げほっ、お、おまたせしたね、買ってきたよ…はぁひぃ、ひぃ」

「ちょっ、だいじょぶオジサン? そんな慌てなくてもいいのに」

 上半身を折り曲げたまま、彼は床に向かって激しく息を吐き続ける。しかし買ってきた物の入ったビニール袋は少女に差し出さんと、腕だけは彼女に向かって伸ばされていた。


「か、かぜ…ひくと、いけない…だろう、はぁはぁ、ひぃ…ひぃ…」

 運動不足もはなはだしい。その両脚もガクガクと激しく揺れている。


「…。クスッ、あんがとねオジサン。じゃ、さっそく――――あ、ゴメーン」

「?」

 少女の謝りの言葉に違和感を覚えて彼が下げていた上半身を上げた、その時。

 

 ペチャリ


 何やら頭に湿った感触の乗っかるものが2つ、それが何かを確かめる前に、中年の視線は眼前へとくぎ付けになった。


「っか…???!!??!??」


 全裸の少女。


 濡れた服は勿論、下着の上下すらも脱ぎ捨てた完全裸体な年頃乙女がそこにいた。


 成長著しい豊満な胸の先、丸出しの乳頭にはキラリと穴を開けずに挟むだけのタイプのピアスが揺れる。

 細い腰は、普段ちゃんと食べているのか少し心配になるほどだが、しっかりと肉付あるお尻が下に広がり、プロポーションの良さが惜しげもなく晒されている。


 ヘソにもキラリと光るピアスがある。肌を焼いているせいもあってか、余計に目立つ。


 全身くまなく日焼け……否、下着を着用していた部分はやや薄い地肌色。それでも普通に比べて濃い。少女は、元々からして色黒気味なのだろう。




「………」


 絶句。慌てふためくことすら忘れて固まってしまう。

 彼の思考は完全に停止していた。



「……アタシのブラとショーツ、頭にのっけながらガン見とか。オジサンってば、やーらしーんだから♪」

 ニタニタと意地悪そうな表情で言われて、彼はようやく我に返った。


「え、あ、いや、ち、違うっていうか、そのな、なぜここで着替えて、というかこ、コレはあわわわわっ!」

 目を背けるのと、男の前で服を脱ぐなんてけしからんという意識と、バッチリ色々拝んでしまった言い訳と、頭の腕の濡れた女性下着をどうすればいいのかと………もう何が何やら、色々な事が同時に頭の中を巡って、パニック寸前。


 そんな様子を少女は、恥部を隠そうともせず堂々としたままオジサンが買ってきてくれた袋をまさぐる――――と


「あれ? …これ、女物?」

 さすがにブラはなかったが、ショーツは紛れもなく女性ものが入っていた。新品の証明ともいえる値札がついたままで、2000円と記されている。


「(……まったくもう。まいっちゃうなぁ、ホントにサ)」

 男物でいいと言ったのに。あんなに内向的で冴えない中年なのに。

 頑張って恥をしのんで買ってきた――――その気持ちに嬉しくなってしまう。少女は至極優しい笑みを、自分でも気づかないうちに浮かべていた。









 何だかんだとドタバタし、落ち着いてから小一時間。昔のようにたわいもない会話を二人は交わした。



 そして揃って喫茶店を出ると…


「あ、見てオジサン。雨あがってるよホラ」

 曇天の空の一部から光がさしている。夕方の赤さが薄れた、雨上がり特有の神々しい大自然の天井が広がっていた。


「ほぉ、綺麗なもんだ…」

「ん? それってアタシのこと? なんつってー♪ あはは、オジサン赤くなってるしっ」

「こ、こら、またそうやって…大人をからかうもんじゃない!」

 少女は上機嫌にニコニコしながら彼から数歩走り、離れる。そして…


「じゃーねー、オジサン。楽しかった! …そうそう、アタシの下着と服、オジサンにあげるからー。良かったら使っていーよー」

「つ、つかっ……いやいや、こんなの貰っても困るからっ!!」

「あははははっ、また連絡いれるからーっ! 今度は一緒にさ、カラオケとかいこーよー、じゃねー!」

 そう言ってご機嫌に夕方の光に向かって走り去っていく少女。


 機嫌がよくなって良かったと彼はしみじみ思いながらその姿見えなくなるまで見送る。



 しかし一連の会話を聞いていた周囲の視線。


 完全に勘違いされた冷ややかな目線。少女の濡れた下着衣服をおさめた袋を持って立ち尽くす中年オヤジに向けている人々。

 それにようやく気づいて、彼はそそくさと逃げるようにその場を後にする。



 少女とは反対の、まだ曇天が広がっている方向へと家路につく彼の背中。雲間が晴れて、さらに広がった光が当たる。

 少女との再会で、不思議と抱いた温かい気持ちをより温め、寂しかった彼の心を癒してくれた。






 そして……







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