第3話 いつもの上里君

薄暗い検査室へ続く廊下から電話の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。僕は小走りをして部屋に入り、すぐさま受話器を取った。

 

「はい、一般検査室です」

 

「ちょっと、上里君!!何回も電話したんだけど…!!」

 いつもの少し早口で甲高い声が受話器の奥から聞こえてきた。

 

「す、すみません…森さん。ちょっと、お腹の調子が悪くて…」

 僕はバツが悪そうに答えた。

 

「ちゃんと体調管理くらいしなさいよね〜!!医療従事者なんだから…。それより!太田先生がね、電話欲しいって言ってたわよ。さっさと折り返しの電話してあげて。…本っ当、それくらい自分で電話して欲しいわ。まったく…。事務員を何だと思ってるのかしら。こっちは患者の対応で忙しいって何度も何度も言ってるのに…。それに、あんたもあんたで相変わらず覇気がないわね~、ホント…」

 いつものようにマシンガンのように放たれる愚痴とお説教が本調子になる前に話の途中で僕は割って入る。

 

「いつも…お忙しいのにすみません。すぐに太田先生に連絡します。本当にありがとうございました。それでは…失礼いたします」

 普段喋らない速度で喋ったせいで、ドッと疲れを感じたが、受話器を一度切って太田先生に電話をかける。

 

 ー……プルルルル

 

「はい、消化器外科の太田です」

 

「あっ、一般検査室の上里ですが…先程、お電話いただいたそうなんですが…すみません、休憩中だったんで…」

 

「あぁ~、上ちゃんか。休憩中だったのね~、これはこれは…ごめんね~。あのさ、聞きたいことあってねぇ~例の患者さんなんだけど、結果出たかなぁ~ってね。」

 相変わらずの独特な気の抜けた喋りを聞きながら、僕は二日前に糞便を乗せた培地を孵卵器から取り出して目視で確認した。

 

「そうですね…ちょっと、待ってください」

 僕は受話器を机に置き、顕微鏡で培地を覗いた。すると、糞便の周りに一隻の線虫が這痕を形成しているのを確認した。すぐさま机の受話器を取り、耳に当てながら高倍率のレンズに変えた。

 

「あっ、先生。お待たせしました。やはり、糞線虫、陽性です…。あぁ~……今、フィラリア型のV字も確認しましたので…」

 

「オッケ~。さっすが、あの上里先生の息子さんだねぇ~。内視鏡で十二指腸の下行脚にびまん性の白色絨毛があったんだけど…って相談したら、すぐに糞線虫の検査も追加でやった方が良いって言ってくれたからねぇ~。助かったよ~。ホント、ありがとねぇん~」

「いえ、たまたまその論文を読んでただけですので…」

「いやいや、今年の新人さんは勉強熱心で素晴らしいよ〜。これからもよろしくね〜。あっ、ちなみに…だけど…森さん、怒ってた?」

 

 彼が一応、そのことを気にしていたことに驚きながらも「怒ってましたよ」と僕は答えた。

 

「はぁ〜…彼女はいつもいつも怒って大変だなぁ…もう、しょうがないなぁ〜…来週の学会でお土産買って行けばいいかぁ〜…あぁ、上ちゃん、教えてくれてありがとう。これでさらに怒られずにすむよ〜」

 

「それはなによりです」と答えると後ろから女性の声がした。

「先生、次の患者さん呼びますよ!」

「はいは〜い、ほいじゃあ、ありがとう」

 僕が「失礼します」と言う前に電話はブチッと切れた。

 

 

 プー……プー……プー……

 

 受話器の奥から無機質な音が聞こえる。

 やはり、電話は疲れるから嫌いだ。

 椅子の背もたれによりかかり、天井を見る。

 

 ブーンっと検査室にある検査機器の駆動音が響き渡る。

 

 そう、一般検査室は基本的に僕しかいない。僕が休日の時はベテランの一ノ瀬主任が検査を担当してくれている。

 

 他人とあまり関わらなくても良い、僕にとっては最高の環境だ。

 

「おーい、尿、ここ置いてくよ〜!」

 電話対応の疲れをとるために呆けていると、検査室の入口から声がした。

 

 入口に向かうと信じられない数の尿検体と一人の看護師の姿がそこにあった。

「えっ、なんか…今日…多くない?」

 

「なんか知らないけど、今日…泌尿器外来がスゴイみたいよ…」

「ま、マジか…」

 いつもの3倍近くの量の数に唖然としていると廊下の奥からハリのある声が聞こえてきた。

 

「はい、はい!!剣持さん!!話してないで、次…カテ室行くよ!!」

「あっ、すみません!!じゃあね!がんばって!」

 先輩ナースに急かされ、そちらに向かおうとする彼女に僕はお礼を言った。

「剣持さん、いつもありがとう。そっちも…頑張って…」

 

 彼女は踵を返して少し手を振るとすぐに先輩ナースの方へ向き直り、小走りをして行ってしまった。

 

(こりゃ、残業確定だ…)

 目の前の尿と睨み合いながら、ため息をつく。

 

 その後、怒涛の尿定性検査と尿沈渣を行い、気づいた時には20時を回っていた。検査室の電気を消し、疲れた身体でロッカーに向かい白衣を脱ぐ。

 

 職員玄関の扉が開くと肌を刺すような寒さが襲ってきた。

 急ぎ足で自転車置き場へ向かい、自転車を走らせて寮へと帰宅した。

 

 鍵を開け、ダイニングの電気を点ける。

 テーブルに帰宅途中のスーパーで買った半額のコロッケとハンバーグ弁当を置き、着替えもせずにYシャツ姿のままベッドへダイブをした。

 

(今日は何だか、いつもより…疲れたな…)

 

 深呼吸をして目を閉じると、今日の昼休憩で会った女子高生の姿がぼんやりと浮かんできた。

 

(えっ……と…名前……何て言ってたっけ……)

 

 思い出そうとさらに目を瞑っていると、僕の意識は徐々に徐々に遠くなっていったー。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る