第2話
三日間は外に出ていなかった俺に、春の太陽が突き刺さる。
やっぱり断っておけばよかったかな。玄関を出て数歩目で、俺の頭の中では後悔の二文字がマイムマイムを踊っていた。後悔は物事に先んじて立つことはないということは猫の寿命ほどの我が生涯における経験上承知していたはずだが、目先の報酬に目が眩んでは後に立つそいつを遠目から見やることもできなかった。欲情遠近法とでも名付けておこうか。
住宅街から一歩出て、しばらく歩けば県道に出る。その県道を左に折れて、そのまま道なりに進めば、右側に四方田公園が見えてくる。道順は簡単だ。ただ、距離はとても長いのだが。
三寒四温と言うだけあって、春の気温は変わりやすい。この間まで肌寒さを感じるくらいだったのに、今は割と暖かな、過ごしやすい空気が街を包んでいた。俺が外に出ていなかった間に、世の中はこんなに春になっていたのか。乙女心と秋の空のグループに、春の気温も仲間入りさせてやりたいものだ。
浦島太郎になったような気分で歩いていると、予定通り県道に出た。春休み、しかも桜前線真っただ中のこの日、交通量はいつにも増して多いような気がする。縁石と垣根を隔ててすぐ横を通る車は、後を絶えない。今日こんなに暑いのは、この車たちの熱気と排気ガスが大きく要因となっているのかもしれない。
目的地に向かう道の途中でも、桜の木を何本か見かけた。どれも見事に咲き誇る者たちばかりだった。桜先輩、どうも、お久し振りっす。
四方田公園の目の前に着いたのは、家を出て三十二分後のことだった。予定より少し遅かったが、まあ、誤差だろう。
四方田公園北口から、中を見やる。入らずとも、俺には分かった。いや、恐らく、誰の目にも分かるだろう。四方田公園は、人でごった返していた。所狭しとブルーシートが敷き詰められ、もはや推定もできないほどの人がそこにいた。さすが全国でも花見の名所としてその名を轟かす四方田公園、といったところか。
これじゃあ今日明日行ったところでたぶん場所はとれんぞ姉貴よ。俺はこのことを報告しようか、と考えたが、辞めた。
「じゃあ場所はとってきてもらえたのよね?なに、とってない?なんてこと、お小遣いは没収よ!」
心の中に鬼を垣間見た。十分あり得ることだ。春だというのに、俺は震えた。
出店が来ているというのなら、見ていかない手はあるまい。そう思い、俺は公園の中に足を踏み入れた。通路となる部分は場所どり禁止なのか、歩くためのスペースは十分に確保されている。だが、溢れんばかりの人混みのせいで、そこを通るのは容易ならざるものだった。そこをなんとか通り抜け、公園中央部に出ると、出店の列ができていた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。わたがし、たこ焼き、フライドポテト、林檎飴、おや、射的や金魚掬いまで出ているのか。まるで縁日だな。
まだ朝の十時だから、すごくお腹が空いているわけでもない。しかし、小腹が空いていないわけでもないし、せっかく来たのなら少しくらい楽しもうではないか。小遣いも貰ったことだし。
そう思いながら出店街を物色する。フランクフルトがいいか、いや、イカ焼きも捨てがたいな。おや、牛串ステーキなる物もあるようだ。うーん、どれにしようか。
優柔不断が売りの俺だ、ここでも遺憾なく発揮していると、目の前に広がる通路の隅に、見覚えのある姿を見つけた。
俺は今、幅五メートルほどの、土の通路を歩いている。この公園は緑の芝生が全体を覆っていて、通路だけが、バリカンでラインを付けたように土になっている。俺から見て左側の通路方に出店が並んでおり、通路を挟んで逆側は芝が広がっている。この通路と右側の芝の境目には、いくつか背もたれのない石の長椅子が等間隔に設置されており、その中の一つに、そいつは座っていた。
顔は覚えている。だが、名前は思い出せない。黒い背中まで伸びた長髪の、小柄な同い年の女の子だ。服装は至って普通で、上は白い半そでのブラウス、下はデニム地のスカート。すぐ横に浅緑のケリーバッグを置いている。そいつは椅子に腰かけ、食い入るように目の前をじっと見ている。何か考え事でもしているのか。その娘は一人で座っていた。
気にはなったが、なにぶん話したことはあまりないと思う。同じクラスだったのは間違えないのだけれど。話しかけるのも憚れる、そんな距離感の知り合いな気がする。
俺がその少女を見ていると、突如彼女の頭がゆっくりと横に回るように動き出し、こちらに向いた。丁度見ていたものだから、目が合ってしまった。
あちらも俺が顔見知りだと気付いたのだろう、一瞬瞳が大きくなったかと思うと、ぺこりと頭を下げてきた。それに反応して、俺も思わず小さく会釈する。やはり知り合いか。そのまま無視するのもなんだ、俺は名前を知らない顔見知りに歩み寄った。
「どうしたんだ、考え事か?」
俺がそう聞くと、彼女は慌てたように口を押えた。
「え、私、変だった?」
透き通った、鈴の音のような声だ。よほど恥ずかしかったのだろうか、顔を赤くしている。
俺はなんだかおかしく思えて、我慢したような笑いが顔から溢れてきた。
「ずっと一点を見つめてたから。なにか考え事かなと思って」
よく考えればこんな騒がしいところにわざわざ来て考え事なんて、おかしな話だったが、十人十色、人生色々。このようなうるさい場所の方が落ち着く人もいるだろう。
「考え事というか、あれを見てて」
そう言って彼女は出店の方を指さす。つられて見れば、フライドポテト屋の前で、三人の男が屯っているのが見えた。三人は見たところ俺たちよりは年上で、二十代前半と言ったところか。それぞれ赤、青、黄のシャツを着ている。……信号機か?
「あの人たち?」
俺の問いに、彼女は頷く。
人様を指さして「あれ」呼ばわりとは、失礼な奴め。そうは口に出さず、続けて聞いた。
「それが、どうしたんだ?」
三人の男が、フライドポテト屋の前で立ち話をしている。それの何が、あんなにみつめるほど面白いのか。
「ちょっと、あの人たちの話を聞いてみて」
おいおい、あれ呼ばわりの上に盗み聞きかよ。
だがまあ、なにか面白いことでも話しているのだろうか。なら聞いてみても悪くはないだろう。三人組の話に耳を傾ける。
「そうです、確かあのゲーム流行り出したころで、みんなも本業そっちのけではまっちゃってたんですよ」と赤シャツの男。
「だからお前は同じ轍を踏んだんだよ」と青シャツ。続いて黄色シャツの方を向く。
「ね、そうですよね先輩」
喋っている青シャツを、赤シャツが渋い顔で見ていた。
「あ、なんだ?嫌味か貴様あ」と黄シャツ。彼は赤シャツに向けて
「あれ、結構流行ってましたもんね、確か一年目でしたっけ。やっぱり俺の周りもみんなやってましたもん。あとでこいつ懲らしめちゃいましょうよ。昔からこいつ、生意気なんですよ」
「え、それお前だけでやってくれよ。さすがにちょっと」と赤シャツ。
それに対して青シャツは黄色シャツに言う。
「こいつは俺には逆らえませんよ」
そのまま赤シャツを見て、「なっ?」と同意を求める。
「……はい」
暗い様子の赤シャツ。黄色は不思議そうに青を見た。
「折角だし、とりあえず出店回ってみません?先輩のおごりで」
すると青が、そんな黄色に提案する。
「ああ、すまん、今月俺、ピンチなんだよ。まあ、油断してた俺が悪いんだけどさ」と黄色。
「冗談ですよ。今俺、懐温かいんで、気にしないでくださいよ。な、健二、お前にも奢ってやるよ」と青が返す。
赤の名前は健二と言うらしい。健二は小さく返事した。
そんな話をしながら、彼らはどこかに去っていった。
ふむ、たしかに、これは、変だ。
「ね、変でしょ、なんだか」
確かに変だ。だが、何が変なんだ?違和感はある。だが……。
あ、と気が付いた。
「敬語か」
彼女が、はっとする。
「うん、そうだよ、それ!」
俺は別に敬語の使い方を指摘したのではない。それほど手厳しい性格をしている自信はないし、彼女も恐らくそうだろう。
違和感は、彼らの言葉遣いの食い違いにある。
すこし、整理しよう。赤シャツは青シャツに敬語を使っていて、青シャツは赤シャツにため口をきいている。青は黄に敬語をつかい、黄は青にため口。そして黄は赤に敬語、赤は黄にため口。つまり。
「じゃんけんみたいになっているのか」
そう、三人は、言葉遣いの観点で、三竦みになっているのだ。
黒髪の彼女は、嬉しそうに手を打った。違和感の正体が晴れて、喜んでいる様子。だが、首を傾げた。
「なんであんな関係になってるんだろ」
ああ、それは確かに。一体何がどうなったら三竦みの上下関係が出来るのだろうか。
うーん。
「赤は黄の先輩で、黄は青の先輩で、青は赤の先輩……」
駄目だ、矛盾している。高校生の俺の中じゃ上下関係は年齢の上下に依存するものだが、社会人ではそれは適用されないんだろうな。とは言ってもこんなきれいな三竦み、考えられないぞ。
考えていると、頭がこんがらがってきた。
「うーん、そうだな、なにか、書くものはないか?」
紙に書いて整理したかった。
彼女は、「えっと、確か」と言いながら、傍らに置いていたケリーバッグを開き、中を漁り始めた。
「あった」
彼女が取り出したのは一本のボールペン。例を言って、うけとる。
「紙がないな」
黒髪の彼女は、「紙はもってないんだ」と小さく呟く。
あたりを見回す。あるのは出店だけ。紙は、紙はないか。
ふと、たい焼きの文字が目に飛び込んできた。
「ちょっとまっててくれ」
俺はそう言うと、出店の方に向かった。
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