春の歌 〜無差別ラブレター事件〜

あおい

第1話

例えばだが、大金が欲しいとする。


 この世に生を受けて十六年と半年、まだよく世間というものを知らない俺は、大金を貰えると聞けば、まず宝くじが頭の中に浮かび出てくる。それは何故かと聞かれれば、大金=宝くじの方程式が俺の頭の中ではこの世の理を紐解く様々な物理方程式と並んで輝いているからだと答えるほかない。

 

あれだけテレビCⅯや店頭の幟で堂々と「一億円当たるよ!」などと言われ続ければ、そんな論理展開を繰り広げるのは当然だと言えよう。実際に一億円もの札束を見たことはないが、千円札が四枚と小銭がちょろちょろとしか入っていない財布を見て、満足までとはいかなくとも「まあ、特に困らないだろう」と安心感に浸っている我が懐を省みれば、それがどれほどの大金なのかは想像に難くない。何倍になるかは計算しないが。


 話が逸れた。宝くじだ。当然ながら宝くじは、買わなければ配当金は当たらない。しかし、額の大小に関係なく、買ったら必ず当たるというものでもない。そこが買い手の判断を鈍らせるのだ。虎穴に入らずんば虎児を得ずとはよく言ったもの。


 金の亡者のごとく宝くじの話をしているが、俺は今どうしても金が欲しいというわけではない。それなのにどうしてこんなことを考えているのかというと、これが人生観というものを如実に表しているのではないのかと考えているからだ。まだ高校生の分際で人生を語るとは不届き者め、などと思われるかもしれないが、考えてしまったものはしまったものである。


 買うか、買わないか。ここにはリスクとリターンの交わりがある。買って当たればいいが、外れれば金を失うだけ。買わなければ失うものはないが、得るものもない。この二つのどちらを選ぶかは、人によって分かれるだろう。これにはその人の特性が出ると思う。人生はギャンブルだ、という言葉を残したのはどこの誰だったか。


 そういう俺はどちらなのかといえば、買わない方だ。良く言えば堅実、悪く言えば臆病。俺はこの特性を決して悪いとは思っていない。寧ろ、居心地のいいものだと考えている。しかし、もう一方の極である、買う側の世界に多少の興味が湧いてきたのも事実である。そちらに明らかに変わってしまいたい、というわけではないが、少しくらい経験しておいても、損はしないんじゃないか、くらいの思いである。


 そんなことを悶々と考えながら、高校最初の春休みを迎えた。しかしそれを実行に移すことはなかった。機会がなかったのだ。


 「来年、来年度こそはわたくしめにどうか転機を与えてくださいませ」


 毎晩寝る前、布団の中でそう祈っていたのは覚えている。祈りながら、俺は春休みを浪費していた。


 そんな春休みのある日のことだった。


 朝から暇だった。俺は高校では部活動に入らなかった。だから春休みにやるべきこと言えば、宿題くらい。だが、春休み中ずっとやり続けなければ終わらないほどの量があるわけではない。つまり、今からやってしまっては、後から時間つぶしに困ったときに、非常にまずいことになる。なにせ俺には予定がないのだから。


さあ時間をつぶそうと机の上に宿題を広げていた俺は、そのことに気づいた。それらのプリントの束を広げたまま、机からスムーズにベッドに移行し、心の中で完成された言い訳を反芻しながら、のんびりと至福の時間を繰り広げていた。


しかしその至福の時間とやらも、十分も経てば飽きが来た。ぐっ、と両手両足を俺の寝そべるベッドの端から端まで届こうと言わんばかりに伸ばす。確か、このベッドは俺が中学に入ったころに買ったはずだった。あの頃は広いものだと思っていたのに、随分と狭くなったものだ。時が経つのは恐ろしく早いものなのだなあ、と、烏兎怱怱の儚さに胸が熱くなるようだ。


 しかしそれにしても、やることがない。


 テレビは最近ここら界隈で起きた殺人事件の話題で持ち切りで、この時間は特にどのチャンネルでもそればかりが報道されており、見る気がしない。マスコミというものは、何か一つ大きな出来事があればそっちにばかり集中してしまって困る。近辺で起きた事件であっても俺はそう殺人事件に興味はないし、同じものばかりを毎日聞かされても、飽きるものは飽きる。もう少し話題の多様性を求めた方が、数字も取れるだろうに。


あ、そういえば、と思い立ち、自室の本棚に三歩で近づいた。この前学校の帰り道に本屋に寄って、漫画を買っていたのを思い出した。確かこの辺に……。


 見つけた。たった一冊の、俺の希望。


 手に取った漫画本はまだビニルがかかっている。つまり新品。まだ開いてすらいない。これで二十分は時間が潰せるはずだ。


 ベッドにどっかりと座り、喜び勇んで透明なビニルを破く。買って数日、埃をかぶりかけていたその、今の俺には聖典に匹敵する書物を、開封する――――。


 「拓人、あんた、随分楽しそうな春休みをお過ごしのようね」


 突如として降ってきた声。俺の心にレッドランプが灯った。

拓人とは、俺の名前である。苗字は江田。江田拓人である。


 声の聞こえてきた方を見ると私室のドアが開いており、それに肘をつくような体勢で、姉である江田実咲が立っていた。


 姉・実咲はジト目に口元は半笑い、まさしく「馬鹿にしたような表情」とはこんな顔だ。そんな顔で俺を見ていた。


 「何だ、姉貴。部屋に入ってくるときはノックをしろと何度も言っただろ。プライベートの侵害だぞ」


 開封式を見事に邪魔された俺は、ビニルを破いたばかりの漫画本を、座っているベッドの枕元に置く。頭の中には古典的なドラマのワンシーンである、「その結婚、ちょっと待った!」と叫びながら結婚式場に入ってくる男の図、がイメージされていた。この後花嫁はその男と式から逃げ出し、新婦となる予定だった男は、主祭壇の前で一人呆然と立ち尽くすのだ。


「それを言うならプライバシーでしょ。仮にも高校生なら、そんな家にこもってないで、友達とでも遊んできなさいよっと」


 そう言いながら姉貴はこちらへと歩み寄り、俺の方へと手を伸ばした。ぎょっとして警戒した時には既に遅かった。姉貴の伸ばした手は、俺が枕元に置いた聖典を掴み、最後の「よっと」と言ったころには手中に収めていた。


「な、返せよ!」


 俺は微力ながらに口先で抵抗するが、効果はまるでなし。歳が六つも離れていては甞められっぱなしで敵うはずもない。


「これちょうど読みたかったんだけど、あんたなら持ってると思ってさ。丁度良かったわ、ありがと」


 漫画をひょいひょいと振りながら部屋を出ていく姉貴。扉は音を立てて閉まった。


 聖典は目の前で失われた。

 

 俺は丁度花嫁に逃げられた新郎だな、と頭の中でつぶやく。喪失感に従い、ベッドに体をうずめる。唯一の楽しみは消えた。さて、俺はこれからの春休みを、どう過ごせばよいのだ。


 悲しみに暮れていたその時、追い打ちのようにドアの向こうから姉貴の声が突き抜けてきた。


「そうだ、どうせ暇なら、散歩がてら四方田公園に下見に行って見て来てよ。明日友達と行く予定なんだけど、桜は今日から満開らしいし、出店もあるっぽいから」


 俺は渋い声を出した。四方田公園は、公園と言ってもかなり広い。毎年この時期になると、花見客がこぞって殺到することで有名だ。そしてここから歩けば三十分はかかる。三十分も歩くのは容易じゃない。まして春休みとなるとなおさらだ。


「ほら、小遣いあげるから」と声がするとともに扉がわずかに開き、小さな紙切れのようなものがひらひらと舞い降りてきた。


 それを見るや否や、俺はベッドから立ち上がり、瞬く間に床に落ちたその紙へと駆け付けた。拾い、確認する。


「五千円……!」


 手の中で輝くその五千円札に、目を見開く。金のために三十分歩くのは容易だ。ましてや五千円のためなら。それに最近大きな出費があって、今の俺の財布にはあと三百円ぽっきりしかなかった。これはありがたい。


 俺は扉の向こうにいるであろう姉貴に、敬礼して叫ぶ。

「喜んで行かせていただきます!」


 満足したように、足跡が遠のいていった。


 俺は急いで外行きの服に着替えはじめたが、それにしても、と大事に握りしめていた五千円札を見る。


 今日の姉貴はやけに太っ腹だな?

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