第2話 この犬はさまるです。

 ツバメの志望校は県立の普通科高校、ここらでいえば3番手ぐらいの高校だった。すごくレベルが高いわけじゃないけど、進学校と呼べなくもない程度だ。


「いやあ、いい風だった。久しぶりにキチガイヒデが見れて感動したよ。まだまだ健在であったか」

「その呼び方はやめてください」

「いいじゃないか。普段は大人しくて実直そうに見えるが、ここぞというところでビシッと正論と言う名の毒を吐く。おかげで目が覚めたよ」


 先ほどと一変して妙になれなれしい態度になったツバメ。今は半そでの上にジャージを羽織り、どこにあったのか「合格」と書かれたハチマキを額に巻いている。


「それよりヒデ、なんだか他人行儀になったな。昔みたいにタメ口でいいのに」

「時の流れとはそういうものでしょう」

「じじくさいな」

「大きなお世話です」

「うーん、なんだか心の距離を感じるぞ」


 僕は素知らぬ顔で目をそらした。

 デッキチェアは倉庫に片づけられ、代わりに折りたたみ式のローテーブルの周りに座布団を敷き、僕はそこに胡坐をかいている。手元にはツバメの最近の模試の結果。第一志望の合否判定はCとなっている。半分行けるけど半分は落ちる。微妙なラインだ。けれど、思ったほど悲惨というわけでもなかった。


「なんだ、五分五分じゃないですか。部屋中ハワイアンにするほどおかしくなる要因には思えないな」

「まあまあ、科目別の偏差値を見てくれよ」


 五角形のレーダーチャートを見ると、いちじるしくへこんでいる箇所がある。


「英語ですか」

「そう、英語だ」


 僕は点数を見て戦慄した。50点満点で11点……


「逆によくこれでC判定とれましたね」

「そうだろう。自慢じゃないが、ほかの四教科は平均より余裕をもって上だ。英語さえなければ、私はもっと上の高校にも行けるのに!」

「そういう意味のない妄想はいいです」

「英語じゃなくて日本語が世界共通語だったらよかったのに、と思ったことはないか?」

「ない、というかありえない」

「もっと想像力を持てよ、ヒデ」


 なぜ僕が説教されているのだろう。


「ツバメ……さんはどうしてそんなに英語が苦手なんですか?」

「ツバメでいいって。担当教師が嫌いでね。いつの間にか英語も嫌いになっていた。まあ、よくある話さ」


 ……微妙にすかしているのが癪に障る。


「それは学校の話でしょう? 塾で習う先生は違うし、わかりやすい参考書だっていくらでも売っているはずですが」

「こうと決めたら一直線の性格だからね。興味のあるものはとことん追求するけど、気に入らないものはさっさと通り過ぎる。人生は短いからな!」

「生き方としてはかっこいいけど、それじゃ合格は厳しいですね」

「むっ……だからこうして心を入れ替えようとしてるんじゃないか。よし、何か問題を出してくれ」


 そう言って紙とペンを渡すので、適当に思いついた英文を書いてみる。


「これを和訳してください」

「オーケー。なんだ短いじゃないか。実力テストに比べたら楽勝だな」


 自信ありげに答えを書き込むツバメ。

“この犬はさまるです。”


 僕は愕然とする。さっき書いた英文は“This dog is small.”だ。1年生でも解ける問題を出したつもりなのに……


「さまるってなんだよ。名前か? 犬の名前か?」

「もちろん。ほかにどんな解釈の仕方があるっていうんだ?」


 これは思ったよりも根が深いぞ。


「どう? お姉ちゃんの受験、どうにかなりそうかな?」

 トレーにジュースとお菓子をのせた日南子が部屋に戻ってきた。


「ううーんと、まあまあかな。英語さえなんとかなれば、いけるんじゃないの?」

「やっぱり、そうなんだ」


 日南子は困ったような笑いを浮かべる。


「ときどきお姉ちゃんに勉強教えてもらうんだけど、英語だけは答えてくれないんだよねえ。ヒデくん英語得意って聞いてたし、3年生でこんなこと頼める知り合いいないからさ。巻き込んじゃってごめんね」


 そういうことか。なぜ1学年下の僕に教えろと頼んできたのかわかった。ツバメの英語力は中一レベル以下ということだ。


「いいよ、べつに日南子が謝ることじゃないし……」


 このマフィン、手作りっぽいな。もしかして日南子が作ったのか?

 そんな僕の横顔を、じっとりした目で見ているツバメ。


「……ごめん。悪いけど、ちょっと僕には荷が重すぎるな」

「そっかあ。そうだよね……」


 気まずい沈黙。日南子は寂しげにうつむく。

 何かものすごい罪悪感が胸にのしかかってくる。

 このざわざわした感じはなんなのか。正体を突き止める前に、ツバメの腕が僕の首をぐいっと引きよせ、耳元でささやく。


「なあヒデ、もしも私の勉強に付き合ってくれたら、いざというときに援護射撃してやろう」

「な、なんの話ですか?」

「日南子はかわいらしい顔立ちをしているし、私と違って性格もいい。そして適度に抜けているところがある。キミが惚れるのもわかるよ」

「誤解ですよ。日南子はただの幼なじみで……うぐっ」


 く、苦しい……


「そこだよヒデ。君は幼なじみという絶好のポジションにいながら、反抗期という見えない鎖でがんじがらめになって身動きが取れない状態になっている。ぼさっとしていたら横からかっさらわれるぞ」

「ちょっとお姉ちゃん、なにこそこそ話してるの? ヒデくん苦しんでるよ」


 日南子が心配そうにツバメの腕に手をかける。


「……もし受からなくても、僕のせいにしないでくださいよ」

「ああ、もちろん! 交渉成立だな!」


 満面の笑みでVサインをしてみせるツバメを、日南子は不思議そうに見ていた。

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