この犬はさまるです。

文月みつか

第1話 アロハの冬

 今年は暖冬だからと油断していたら雪が降った。アスファルトに舞い降りてはすっと解けていく雪。そのうえをスニーカーで踏みつけて歩くのは無粋のような気もする。


 今日は土曜日。どちらかといえばインドア派なので、こんな雪の日はこたつで丸まって猫のように過ごしたかったが、塾があってそうもいかなかった。重たいテキストを背負って行き、帰りは宿題のぶんだけもっと重さを増したバッグを背負って帰る。今日の宿題はいつもより多い。3年の先輩たちが受験直前で頑張っているのだから君たちも頑張れというよくわからない理由で丸め込まれた。塾の先生たちは勉強ができるくせにときどき詭弁を使う。1年前の今から覚悟しておけというメッセージなのかもしれないが。


 早く帰って温かい部屋で毛布にくるまりながらゲームがしたい。でも宿題はさっさと片づけてしまいたい。頭の中は家に着いたらすることのプランでいっぱいだった。


 だから突然後ろから「ヒデくん」と話しかけられてびっくりした。危うく飛び上がるところだった。声の主は同じ塾に通っている飯島日南子ひなこ。白い息をはずませ、小走りにかけよってくる。ぐるぐる巻きのマフラーに埋もれかけた鼻が、かすかに赤らんでいる。


「はあ、はあ……話しかけようと思ったら、チャイムと同時に帰っちゃうんだもの。歩くの、速すぎ」


 どうやら塾を出たところから追いかけてきたらしい。日南子の家はうちのたった3軒向こうで、帰りは同じ方角だ。白状すると、小さいころはよく遊んだ仲だ。


「何か用?」

「うん、ちょっと頼みたいことがあって……」


 何やら言いづらそうに視線を落とす。


「寒いから早くしてくれよ」

「口ではちょっと伝えにくくて……とにかく、うちに来てほしいの。見ればわかるから」


 はあ?と肩をすくめながらも、僕は彼女に歩調を合わせる。




「あのね、びっくりするかもしれないけど、逃げないでね」


 日南子は念を押すと、そっと部屋のドアを開けた。

 むわん、とあたたかい風が吹き抜ける。


 南国かと思った。

 ゆったり流れるウクレレのBGM。なんだかわからないがトロピカルな香り。6畳ほどしかない部屋の中にがっつり幅を利かせているデッキチェア。そこに寝そべってる、半そでショートパンツという季節感をまるで無視した格好のやつが飯島ツバメだ。氷がたっぷり入ったフルーツジュースをすすっている。

 グラサンを額に押し上げ、こちらをみとめたツバメは、「アローハー」と間延びした挨拶をした。


「おや珍しい、ヒデも一緒か」

「アローハーじゃないよお姉ちゃん! 電気代いくらかかると思ってんの!」


 日南子がリモコンでピッとエアコンの温風を止める。

 想像の斜め上を行く光景に、思わず息を止めた。


「おっと、せっかくの気分が台無しじゃないか。どうしてくれるのさ」

「お姉ちゃんこそ、あと2か月で受験だってことわかってるの!?」

「うげっ。やめてよ、せっかく忘れてたのに」


 ツバメはデッキチェアの上で縮こまって耳をぎゅっとふさいだ。


 日南子が幼なじみなら、その一つ年上の姉のツバメも僕の幼なじみである。彼女の傍若無人っぷりは折り紙付きだ。一緒に遊べば、我が道をゆくツバメに僕と日南子が振り回されるというパターンがお決まりだった。しばらく会っていなかったが、相変わらずのようだ。


 日南子の頼み事というのは、高校入試を目前に控えている姉の目を覚まし、机に向かわせる手助けをしてほしいというものだった。そして、できる範囲でいいから勉強を教えてやってほしいと。なかなかにハードルが高い。


「いちおう聞くけど、なにこの異様な状況?」

「それはキミ、もしも私が入試で合格したらハワイに連れて行ってくれるという約束を親父殿と交わしたからだよ。私は形から入るタイプなんだ。ハワイに行ったというイメージを強く持ち、現実を引き寄せているのさ」


 ツバメが息を吹き返したように雄弁に語る。妹が痛々しそうに横目で見ているのは気にならないらしい。ここはひとつ、がつんと言ってやらねば。


「なるほどね。でもそれ、目的と手段が入れ替わってますよ。ハワイはモチベーションを上げるためのツールであって、目的ではないでしょう。あなたは高校に行って、何がしたいんだ」

「えーとぉ……」


 ツバメは下唇に指をあてる。


「友だち作ってぇ、彼氏つくってぇ、部活で思い切り青春してぇ……」

「ありきたりだな」

「いいだろう別に」


 あと、親友と同じ高校に行きたい。ツバメはぼそぼそとつぶやいた。なんだ、こっちが本命か。別に隠すことないのに。


「ちゃんと頑張る理由があればオーケーです。たとえ志願理由書には書けないことでもね」


 僕は立ち上がり、窓際へ歩み寄る。

 何事かと注目しているツバメと日南子。僕はひとつ深呼吸して、思い切り窓を開け放った。


「うわぁっ、何をする!!」

「ヒデくん!?」


 痛いほどの冷気が室内に飛び込んでくる。ひゅぉぉぉっと寒々しい音が、南国気分を破壊する。

 ツバメはデッキチェアから転がり落ち、震えながら「早く閉めてくれ!」と叫ぶ。


「これが世間の寒さです! あなたがリゾートごっこをしているあいだに、ライバルたちは凍てつく寒さに耐えて勉強に励み、着々と差をつけているのです! 現実を知れ! 目をそらすな!」

「わ、わかったよ英俊ひでとし!! だからもう勘弁してくれ!」

「お願いヒデくん、このままじゃ風邪引いちゃう!」


 僕は満足してうなずき、窓を閉めた。寒いのが嫌なのは僕も一緒だった。

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