5|始まった非日常⑦

***


 刺すようなまぶしさに、アワは目を開いた。窓から入る日は、オレンジ色に輝いている。

 瞬きを数回して、自分があおむけに寝ていることを把握。ぼんやりと記憶の糸を手繰り寄せ、これまでの経緯を思い出した。恐る恐る右手を掲げ、見慣れた普通の腕が視界に入ると、小さく息を吐く。

「……ああ、ボク助かったんだ」

「悪かったね、意向に沿えなくてさ」

 声は右から聞こえた。ベッド脇に、氷架璃が腰かけている。

「……氷架璃」

「よ、アワ」

「……何食べてんの」

「見りゃわかるでしょ。たい焼きだよ、たい焼き」

 言って、手にしたそれをぱくんと頬張った。口の端から魚の尾がのぞく。

「ふぁいふぁふぁふふぁふぁ」

「食べてからしゃべりなよ……」

「ごくん。雷奈たちなら、先に帰ったよ。早めの晩御飯食べたらまた来るつもりだってさ」

「君は……?」

「これが晩御飯」

 抱えた紙袋の中には、まだいくつか詰まっている。アワは苦笑した。

「親御さん心配するよ」

「親は同居してないっつの。ジジイとおばあちゃんと、時々、家政婦」

「そうだったね……言ってたね」

 夢のようだった。氷架璃が、またフィライン・エデンに来ている。

(思えば、こうやって普通に話をして、時々フィライン・エデンに遊びに来てくれれば、それでよかったんだ。……ボクってば、いきなりパートナーなんて言い出したから、断られちゃったんだろうな)

 十歳で学院を卒業してからの四年間を追憶する。パートナー締結を断られるなど、つゆほども考えに上らなかった。何の疑いもなく、仲良くなれると思っていた。

(これからどうしようかな。ボク……どうしたらいいのかな)

 暗闇に足を踏み出すような心地だった。襲い来る不安を振り払おうと、無理に笑って氷架璃に話しかける。

「そういえば、ボクの分のたい焼きはないの?」

「あるよ」

「え、ホント!?」

「ただし」

 紙袋入りのたい焼きを突き出した氷架璃は、ジト目でアワをにらむと、

「もしこれ食べるんなら、二度と私にパートナーの話をしないこと。もうここにも来てやんない」

「え……」

「でも、まあ、今朝のことは感謝してるから、どっちか選ばせてあげる」

 アワの目が見開かれる。氷架璃は視線をそらして、唇を尖らせた。

「……どうすんの? いるの、いらないの?」

 しばらくの間、アワは頭が真っ白になった。一面の白の中に、やがてぽつりと一つの感情が現れる。それは自身の存在を確かめるように広がっていき、アワの頭を埋め尽くした。温かいその感情の名前が「幸せ」であると気づいた途端、視界がにじみそうになって、ぎゅっと目をつぶる。ごまかすように思い切り破顔して、アワは手を伸ばした。氷架璃の、たい焼きの袋をつかんだ左手には目もくれず、

「ありがとう。よろしくね、氷架璃」

「……仕方ないなあ。よろしくね、アワ」

 氷架璃の右手が握り返すその感触に、彼はずっと求めていた誇りと安堵を覚えた。

 そんな光景を、扉からそっとのぞいていた、夕食から帰ってきた三人

 雷奈と芽華実、フーは、互いに顔を見合わせて笑みをこぼす。扉を大きく開けて、中に入ると、

「おめでとう、アワ!」

「え、フーたち!?」

「よかったね、パートナー結成できて!」

「なんか、パートナーって響き、恥ずかしいな……」

「じゃあ、氷架璃は何がいいの?」

「うーん……バディ、とか」

「じゃあ、よろしくね、バディ!」

「私も改めてフーにあいさつしなくっちゃ。よろしくね。フー」

「こちらこそよろしくね、私のパートナー、芽華実」

 それから、面会時間が過ぎるまで、彼女らの笑い声が絶えることはなかった。


 ――何の変哲もない普通の世界だったのだ。

 まさか異世界と、そしてその住人と関わる突飛な生活が始まるなど、夢にも思うまい。

 春休みの向こう、非日常が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る