5|始まった非日常⑥
「流清さん、だめデスー。このままでは本当に命にかかわりマスー」
「ごめん、アイさん。それでも、ボクは……」
「待って、アイ」
雷奈が二度、話しかけた。その目には、確固たる自信が映っていた。
「アイ。医療従事者……あなたの親戚にもおるっちゃろ?」
アイが目を見開いた――ように見えた。糸目は変わらない。それでも、ハッとした表情になった。
「一番近い医療関係の親戚に電話して」
「応援を呼ぶのデスか? でも、親戚は眼科だったり研究関係だったり、専門外デスー。一人、従兄に薬師がいマスが、今はどこにいるのやら……」
「情報をもらうだけでも違うったい。早く!」
鬼気迫る雷奈の勢いに、アイはすぐさま室内の電話を取った。コールの間、芽華実がそっとフーに問いかける。
「フー、ユウって子とアイの従兄にあたるひと、誰か知ってる?」
「ええ、寡黙だけど優秀な薬師よ。でも、少し前に、弟子を探しに旅に出かけたって聞いたわ」
「だからどこにおるか分からんとね……」
雷奈がつぶやいた時、電話がつながり、アイが話し出した。
「サイ! 緊急デスー。実は……」
状況を話すアイ。相槌が雷奈たちにも聞こえてくるあたり、スピーカーフォンにしているようだ。気の抜けたような「うん、うん」という低い声に、雷奈たちは不安を感じ始める。
「……ということなんデスー。何か手立ては……」
『それはねー、今病院にある薬では無理かな』
スピーカー越しの彼は、気の抜けた声のまま、残酷にもそう告げた。
「……無理、って……」
『お、聞き覚えのない声だね。人間かな?』
「……そうだよ。水晶氷架璃ってんだ」
氷架璃がアイのほうへ歩み寄り、電話機をひったくった。
「そんなに簡単に言うなよ! あんたプロだろ!? 助けろよ!」
『君が言うかい? 流清君のパートナーにならなかった人間』
氷架璃が押し黙る。声はさらに迫った。
『知ってるんだよ、ボクは情報通だからね。確かに、突然わけのわからない世界からの使者に、パートナーになれって言われたら困惑するだろうね。断るのも一つの手かもしれない。でも、そのくせに彼を助けろと言ってボクを頼ろうとしている。フィライン・エデンと交わりたいのか、それとも違うのか、どっちなんだい。仮に流清君が助かったとして、永らえた彼をどうせまたフるんだろう?』
「……」
『そんな君がどうしてそこまで必死になる? エゴの可能性が考えられるね』
「……命助けんのがそんなにおかしいか、薬師ッ!」
部屋中に響く声で、氷架璃が激高した。
日常、彼女は短気だ。よく声を荒らげる。しかし、それとはまったく色の違う怒号が、人も猫も関係なくその耳朶を震わせた。
「ああ、断ったよ! 関わりたくないって言ったよ! だからなんだ、見捨てる理由になるか! 関係ないことごちゃまぜにしてんじゃねえよ! あんたならどうなんだ! 自分に関係ない他人だったら見殺しにすんのか! え? 薬師さんよ!」
電話の向こう、サイと呼ばれた男は黙っている。その猶予が幸いだった。氷架璃の胸中、決意が固まっていることを確認するのに、十分な時間だったから。
「……それにな。あんたはもう一つ間違ってる! もしやり直せるなら! 私にチャンスがあるなら! 私はっ……!」
『もういいよ』
サイは変わらず平坦な声で言った。
「……なんて?」
『もういいって言ったんだ、水晶氷架璃。全部わかったから。君の熱意も、決意も、そして――』
電話が切れる。ブツリと音を残して、静寂が支配した検査室。そのドアが、開いて。
「――この場所もね」
長身の青年だった。服は質素で、春らしさなどみじんもない。黒い髪は無造作に首の後ろでまとめられている。昏い、死んだ目をしているのに、野暮ったさはなく、世慣れた大人の空気をまとっていた。そんな彼の後ろから、二匹の猫がついてきている。
「サイ……!」
「お待たせ、アイ。二階だろうとは思ったけど、水晶君が大きな声で叫んでくれるから、どの部屋かまでもわかってしまったよ」
「どうしてここに……?」
「ちょうど弟子探しが終わって、帰ってくるところだったんだ。運がよかったね。ボク単体じゃなくて、一通りの薬草も、そして二人の有能な弟子もいるよ」
サイはアワの寝台の前に来ると、斜めがけにしていた鞄を下ろした。
「な、何するの?」
「その声、君が水晶君だね。もちろん、薬の調合さ」
「さっきは無理って……」
「今病院にあるものではね。ボクだって開発後、一定量生産しない限りは病院に売れないよ。これから調合するのは、今度病院にも売る予定だった、新作の漢方だよ」
「漢方……」
「サイは漢方が専門なんデスー。とはいえ、西洋薬の造詣も深いデスー」
サイは鞄の中から、さらに鞄を出した――と思いきや、鞄に見えたそれは、三つに折った布製の薬草ホルダーだった。それぞれのポケットに薬草の名前が書かれている。
「西洋薬では歯が立たないよ、アイの言う通り。従来の漢方でも綱渡りだね。でも、ボクがこの前調合に成功した漢方なら、副作用も後遺症も心配ないよ」
サイは薬草ホルダーを広げ終え、薬研と乳鉢も取り出すと、アワを見下ろして、
「色々大変だったと思うけど、流清君。ボクも君には死んでほしくないからね。悪いけど助けるよ」
「……うん」
「目が覚めたら全部終わってるだろうから、麻酔が効いているうちに寝てしまうことだね」
それだけ言うと、主体のまま付き従う二匹の猫に目線を向けた。一匹は白い体の折れ耳の猫。それも、ウサギのように少し耳が長い。もう一匹は薄茶色の、普通の三角耳をした猫。鼻で止まるタイプの眼鏡をかけている。
「ミンリ、ケイ。初仕事は大仕事。流清家が正統後継者の命を救うことだ。わかってると思うけど、失敗は許されないよ」
「はい、師匠!」
「よろしい。では、まず……」
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