5|始まった非日常⑤
白衣をつかむ氷架璃の手から力が抜けた。
フーと芽華実が声を失った。
アワが目を見開き、雷奈は自分が呼吸を忘れていることに気づいた。
「切断……って」
「厳密には、投薬のタイミングや猫術を工夫して命を救うことはできマスー。しかし、投薬の結果毒の進行が早まって、命の危険や後遺症につながるのを防ぐためには、腕を切らなければならないのデスー」
淡々と告げるアイは、決して冷徹なのではない。一刻を争うがゆえに、要点だけを述べているのだ。
当人のアワは、想像だにしていなかった通達に、茫然としていた。腕を失うという事実が、事実として受け入れられない。なのに、
「処置には、流清さんの同意が必要デスー」
決断の時は、もう目前にあった。すごい速さで近づいてきたというより、瞬き一つの間に目の前に立ちはだかっていた。そんな感覚だった。
(アワの腕が……なくなる。たぶん、猫の姿に……主体に戻っても、腕はなくなったままだ)
自分の腕が切られるのを想像して、氷架璃はぞっとした。今までの彼の仕草を思い返せば、アワも右利きだったはずだ。その損失は大きい。
けれど。
(そうでもしないと、命ごとなくなる。だったら……)
「もういいよ」
静かな検査室に、ざらついた声が落ちた。
「アワ……?」
「アイさん、腕は切らなくていい。もう麻酔もしなくていい。このまま……、このまま……」
「何、言ってんの!?」
氷架璃はベッドのふちに手をついてアワに怒鳴った。彼の表情は、諦念がにじみながらも、穏やかだ。
「そりゃわかるよ、ショックだよ! でもそれで助かるんだよ! 腕一本失ったって、それで生きていけるなら……!」
「生きるの? パートナーを得られなかった正統後継者のボクが?」
二の句が継げなかった。言葉を詰まらせた氷架璃に、アワはゆっくりと静かに告げる。
「選ばれし人間がいながらもパートナーを得られなかった正統後継者はね、一家の恥なんだよ。ボクは人生をかけて君に臨んだ。そしてあっけなくフラれた。それだけで、ボクの価値はもうないんだ。この先どこへ行っても蔑まれ、指をさされる。そんなことになってまで、生きたくないなぁ、ボク。……そんなことになるくらいならさ、せめて……パートナーになるはずだった人をかばっての、名誉の死で終わらせたいよ」
氷架璃は、じわじわと心が腐食され、崩れ落ちていくのを感じた。命を簡単にあきらめたアワが解せなかった。その原因を作った自分が許せなかった。でも、それ以上に、
(なんで……そんな穏やかな顔で私に向かって言えるんだよ……!)
誇りを、名誉を、あまつさえ自分自身を失う原因となった少女に、淡い微笑みさえ浮かべて彼は言う。恨みも憎しみもなく、そこにあるのはあくまでも氷架璃を尊重する心。その理不尽な一途さが、気に食わなかった。
リンから聞いた、神託があってから一年間のアワ。
フーが口にした、正統後継者のこれまで。
遅まきに失して、それらを心の底から本当のことだったのだと信じた。そして、もしやり直せるなら、どうするべきなのかも。
(……違う。やり直せればとか、そういうのじゃなくて、今からでも、私は……!)
歯噛みして、決意する。氷架璃が口を開きかけた時、一瞬早く、沈黙を破る者がいた。
「ユウ……そうだ、ユウ!」
今まで黙っていた雷奈が、徐々に声量を上げて言葉を発した。アイに歩み寄り、興奮した様子で言う。
「アイ、ユウって子が、この辺にいるお姉さんが医者だって言ってたばい! ユウのお姉さんなら、もしかしてほかの薬を持ってたり、方法を知ってたり……!」
氷架璃と芽華実がいなかったときに交わされた会話を思い出して、雷奈はまくしたてた。新たな希望に、氷架璃と芽華実の表情が晴れる。
が、その喜びはほんの束の間だった。
「それは無理よ、雷奈」
「フー……?」
苦しげに口にしたフーの言葉の意味が分からず、呆ける雷奈。
「ユウなら、私たちの友達よ。よく知ってるわ。……でも、その子のお姉さんは」
「雷奈さん」
アイが自分の白衣の胸元を指した。そこにつけられた名札を見て、雷奈は希望が崩れ落ちる音を聞いた。
「……知念……アイ……」
「ユウは私の妹デスー。その医者とは、十中八九、私のことデスー」
「……そんな」
今更ながら、雷奈は、今までアワとフーがアイのことを名前で呼んでいたのを思い出した。友人の姉だったからこその、親しげな呼称だったのだ。
雷奈は震えながらうつむいた。万策尽きた。もう八方塞がりだ。そう思う一方で、何かが引っ掛かっている。
(待って……待って、もっと考えて。ユウは何と言ってた? お姉さんが医者? ううん、その前、確か……)
電流が走るように、雷奈の脳裏によみがえった声。
――私の家族や親戚は、医療従事者が多いの。
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