5|始まった非日常④

***


 道中、痛みの中自分の足で歩くアワを見かねて、雷奈は主体に戻ることを提案した。しかし、体が小さくなれば、毒が回るのが早くなるという理由で、人間姿「双体」のままワープフープを目指した。

 やっとのことで青い輪をくぐり、人間界からフィライン・エデンへと転移した、直後。

 それまで自力で歩いていたアワが、膝をついた。

「い……たい……っ、痛い痛い……!」

「アワ!」

 骨を溶かされるような激痛が、アワの右腕を襲う。痛みのあまり、変色した部分に触れることもできず、少し離れた上腕を握りしめた。

 もっと静かに蝕んでいくものだと思っていた雷奈たちは、想像以上の悶えようを見て、恐怖と焦りを募らせた。あの落書きのような化け物の攻撃がかすっただけ。それだけのはずなのに、ことは重大になりつつある。

(まさか……こんな)

 氷架璃は茫然と、今朝のことを思い出していた。軽口を叩きあう、いつも通りのアワとの朝。ダークの出現によって一変した事態。その直前にあったのは、この状況に陥る原因となったのは――。

(私を、かばったから……)

 氷架璃の頬を、冷たい汗が流れる。

 と、その時。

「おい、こっちだ! 早く!」

 斜め後方から、白衣の男性が駆けてきた。そのあとを、男性と女性一人ずつが追ってくる。先頭の男性は、フーに早口で話しかけた。

「さっき連絡をくださった風中さんですね? お待たせしました、流清さんを先に病院へお連れします」

「は、はいっ」

 フーは雷奈たちを振り返り、「病院の人だよ!」と告げた。その間に、三人は手早く布担架を展開すると、あっという間にアワを包んだ。そして、

「っ、消えた!?」

弾趾だんしよ。猫術の一つ。私も使えるけど、あなたたちを置いていくわけにはいかないわ。ついてきて!」

 言って、フーは走り出した。瞬速とは高速移動のようなものなのだろうと解釈した雷奈たちは、自分たちが足を動かすことしかできないもどかしさを感じながら、フーの後を追った。

 二十分強ほど走っただろうか。雷奈たちは、いつか見た大きめの建物の一つと見られる場所に着いた。窓の数から、三階建てと見えるが、横幅の広い造りになっている。皇学園の中等部校舎より一回り小さいくらいか。フーによると、この地域はちょうどフィライン・エデンの首都のような場所で、その中央病院だという。

「それでこの規模ってことは、フィライン・エデンって人口少なかね。まあ、町並み見とってもわかるけど」

「確かにそうね。……そんなことより、ほら、戻ってきたわ」

 受付から帰ってきたフーは、アワが二階の検査室にいることを三人に伝えた。雷奈たちが走っている間に、検査が一通り行われていたのだ。

 受付と薬局、そして相談窓口のような場所を設けている一階を後にして、上の階へ上がると、とたんに病院特有のにおいが鼻をついた。いくつか並ぶ扉の上のプラカードに書かれているのは、処置室1、処置室2、薬品室、検査室1、そして検査室2――ちょうどその扉を開けて、中から半身を乗り出す一人の女性がいた。

「風中さん、人間さん、こっちデスー!」

「アイさん!」

 フーがアイと呼んだ彼女は、淡い桃色のセミロングヘアに糸目の、一見おっとりした若い女性だった。しかし、身にまとう白衣の着こなしや、ポケットから四色ペンやらライトやらがのぞいているさまが、彼女がれっきとした医者であることを物語っている。

「今結果が出て、お伝えしようとしていたところデスー。どうぞ一緒に聞いてくだサイー」

 間延びした甲高い声だが、表情は真剣そのものだ。雷奈たちが検査室に入ると、可動式のベッドに寝かされたアワと目が合った。

「アワ、大丈夫っちゃか?」

「一時は失神するかと思ったけど、今は麻酔のおかげでなんとかね。でも……よくないんでしょ、アイさん」

 疲れ切った表情のアワは、ため息まじりにアイに話しかけた。アイは笑ったような糸目のまま、しかし難しい表情をした。

「ダークの毒デスが、悪い組み合わせの二種類が混ざっていマスー。はっきり言って、解毒できないんデスー」

「どういうこと!?」

 氷架璃が声を上ずらせる。アイは冷静に答えた。

「まず、二種類をいっぺんに解毒する薬はありまセンー。それぞれに効くものならあるのデスが、やっかいなのは、一方の毒に対する解毒剤を使うと、もう一方の毒が助長されてしまうことデスー。前者と後者を入れ替えても同じで、はっきり言って、ここにある薬では手の施しようがないのデスー」

「なん……だよ、それ」

 フィライン・エデンに来れば助かると言ったフー。気休めではなく、フー自身も、そう信じていた。それが、あっさりと裏切られた。

 泣き出しそうなフーと、その隣で震える芽華実を背に、氷架璃はアイにつかみかかった。

「じゃあ、どうすんだよ!? 死ぬかもしれないんだろ!? 何とかしろよ、医者!」

「何とかするには」

 アイの声が、きんと冷えたものになる。それは、命を預かる者が、残酷な事実を口にするときの声。

「――侵食された腕を切断して、毒が回るのを防ぐ。これだけデスー」

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