5|始まった非日常③
***
五時間目、六時間目、そしてホームルームと、氷架璃は考えていた。
彼女がフィライン・エデンとのかかわりを拒んでいた当初の理由は、怪しいから、かつめんどくさいから。
この一週間を過ごしてきて、前者は杞憂かもしれない、と感じてきていた。
となれば、残る理由はめんどくさいから、これ一つ。
この単純な無精さで、人生をささげるほどの本気を一蹴していいのだろうか。
確かに、クロやダークという、忌避すべき要素はある。しかし、パートナー関係を結んでいない今でも襲われているのだから、結ばない理由にはならない。
(だったら、私は……)
「氷架璃」
突然、そばで声がして、氷架璃は座ったまま飛び上がりそうになった。
くだんのアワが、すぐ隣に立っていた。
(いつの間に、ホームルーム終わってたんだ……)
もう教室に担任の姿はなく、生徒たちもばらばらと解散しつつある。氷架璃の胸中も知らず、アワは暢気な声で言った。
「雷奈たちがね、帰りにたい焼き食べに行かないかって。屋台が出てるらしくてね」
「そう、私は別に構わないけど……。そういえば、あんた、たい焼き好きなの?」
「うん、好きだよ。あれ? 何で知ってるの?」
「……日曜日に買いに行ってたから、そうかと」
家族の分も買いに行っていたようだが、なんとなく、アワの好物なのかと思ったのだ。
すると、彼は満面の笑みを浮かべた。
「すごい、よく覚えてくれてるね! 氷架璃って意外と洞察力あるんだ……あ、意外とって言っちゃった」
「ああ、言っちゃったな!? 聞いちゃったぞ!?」
氷架璃がこぶしを振り上げるとともに、アワが「痛ぁっ!」と叫んだ。
「……まだ殴ってないじゃん」
あきれ顔の氷架璃は、腕を押さえて声を詰まらせるアワを見て……見つめて、そして気づいた。
「アワ、あんた……?」
「ご、ごめん、ちょっと冷やしてくる……」
右腕をかばいながら、彼は急ぎ足で教室を出て行った。氷架璃の中に、いやな予感がよぎる。手早く荷物をまとめると、廊下に飛び出した。そこに、氷架璃の準備を待つ雷奈と芽華実の姿があった。
「あ、氷架璃。準備できたっちゃか?」
「なんか、アワがすごい勢いで飛び出してきたけど……。今、フーが様子を見に……」
その直後だった。
廊下の洗面所のほうから、悲鳴が上がった。周りの生徒も、びくりと肩を震わせて、声のしたほうを振り返る。振り返るだけで、そちらへ行こうとはしない。悲鳴は短く、何かに驚いただけのようなものだったので、皆たいしたことないと判断したのだろう。
しかし、雷奈たちはすぐさま走り出した。その声は、まぎれもなくフーのもので。そしてフーが追った先には、ただならぬ様子のアワがいるはずで――。
「アワ、フー……、……っ!?」
そこへ駆けつけた雷奈たちは、立ちすくむアワとフーを見て――一瞬、アワの肘から先にあるものが何か、わからなかった。
それは、腕の形をしていた。さもありなん、それはアワの腕なのだから。
しかし、それは人の肌の色をしていなかった。毒々しい紫色のあざが、袖をめくってあらわになった右腕を覆いつくしていた。
「な……なんだよ、これ!?」
混乱した氷架璃が、怒鳴りながらアワへ歩み寄る。アワは茫然と自分の腕を見ながら、こぼした。
「……どうりで痛かったはずだ。しかもこの二時間で急に変色が広がった。……毒だ」
「毒……!?」
言葉を失う氷架璃。雷奈がハッと息をのんだ。
「まさか、あのダーク……傷口に毒ば仕込んだっちゃか!?」
「そうだろう。草術の中には毒を操るものがある。それにやられたかな」
「それって……命にかかわったりは……?」
「ともすれば、ね」
芽華実が声にならない悲声を上げた。
「それ、朝言ってた猫術で治らないわけ!?」
「毒抜きはできないよ。進行を遅らせることはできても」
「じゃあ、病院! あ、救急車か!?」
「焦りすぎだよ、氷架璃。ボクが人間じゃないのを忘れたの?」
「なら、どうしろっていうんだよ!?」
自分の身が危ないというのに冷静なアワに、いら立ちを隠せない氷架璃は声を荒らげる。そこへ、フーが震える声をしぼりだした。
「フィ、フィライン・エデンの病院なら何とかなるわ。私が先にワープフープまで迎えを手配するから……!」
「フィライン・エデンに行けばいいんだな? わかった。アワ、行けるか!?」
「まだ歩けるよ。……途中で痛みのあまり気が狂わないといいんだけど」
そう言う彼の頬には、すでに汗が伝っていた。変色した腕はだらんと垂れ、もう力も入らないことがわかる。
「そうと決まれば、急ぐったい。鞄は私が持つけん……」
言って、階下へ降りる階段を振り返った雷奈は、そこで初めて、周りにギャラリーができていることに気づいた。皆アワの腕を指さし、ざわついている。
「大丈夫か、あれ……」
「すごい色になってるけど……」
「さっき毒とか言ってなかった?」
「ど、どうしよう、フー」
うろたえる芽華実に、フーは「まかせて」と一言。震える体を叱咤し、右手を突き出すと、ぱちんと指を鳴らした。その途端、ギャラリーの生徒たちの目の前で、ポンと小さく煙が上がり、彼らはたちまちその場に崩れ落ちた。
「記憶を消したわ。起きるころには、アワの腕のことは忘れているはずよ。さあ、早く行きましょう!」
フーの声に急かされ、一同は足早に階段を下りた。
向かうは、ワープフープ。その先の、異世界へ。
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