5|始まった非日常②

***


 学校の付近まで来た一同は、いったん人目につかない陰で立ち止まった。

「まさかダークまで人間界に……」

 嘆息するアワに、雷奈が静かに尋ねる。

「ダークって……クロの進化系って言ってたヤツっちゃか?」

「そうだよ。より強い負の感情が転生したり、クロたちが合体したりして生まれるんだ」

「並の猫術では消えてくれないし、向こうの攻撃力も高いわ。何より、知能がクロとは比べ物にならないのよ」

 人間の姿になったフーも陰鬱な面持ちだ。

「だからアワの攻撃が効かんかったと?」

「それもあるけど、今回は詠唱破棄したのもある。ボクたちが術を発動するプロセスはファイから聞いたんだっけ? その源子に術式の命令を送るときに呪文……詠唱と言霊があったほうが伝わりやすいんだ。でも、さっきは唱えている時間がなかったから、威力や命中が下がることを覚悟で、詠唱だけ省略した。最後の言霊は唱えたけどね」

「戦闘に秀でているひとなら、詠唱も言霊もなくても、それなりの精度を保てるけれど、私たちはそんな訓練していないから」

 そのため、フーが時間を稼いでいる間に、撤退という道を選んだのだ。

「でも、そんな怖いのを放って逃げちゃったけど、大丈夫かしら」

「一応、クロとかダークとかは、ワープフープと同じで、普通の人間には見えないんだ。だから怪しまれることはないけど、危害を加えないとも限らない。じきに専門の組織が出動すると思う……けど、ああ、困ったな」

 はあ、と嘆息したアワは、ふと氷架璃の視線に気づいた。

「どうした……ああ、この腕かい? 大丈夫だよ。猫術で治るから」

「……そんな術まであんの?」

「水術とは違って、どの猫種でも共通で使える『純猫術』という技がある。狭義にはこれを猫術というんだけど、これは詠唱も言霊もいらなくてね、発動は簡単なんだ」

 アワは左手を体の前に掲げると、そこに光をともして見せた。手全体を球形に包む、白い光だ。それを右腕の傷にあてる。

「病気の治癒や複雑なけがの治療は素人にはできないけど、これくらいならボクでもできる。だから安心して」

「……あ、そ。心配して損した」

「心配してくれたの? ありがとう……いったぁ!?」

 微笑んだアワは一転、涙目で悲鳴を上げた。頭をひっぱたいたその手をパンパンと払いながら、氷架璃は校門へと一人向かっていく。

「素直じゃないわね、氷架璃ったら」

「ばってん、そこでデレたら氷架璃じゃないったい」

「それもそうね」

 芽華実は苦く笑ってアワを振り返った。

「でも、本当に大丈夫?」

「平気だよ。ほら、もう血は止まった」

 アワの言うとおり、制服の裂け目からはもう新たな血は出ていない。芽華実は胸をなでおろした。

「よかった……」

「ばってん、どうすると? 制服が裂けとること、なんて言い訳すると?」

「うーん……」

 アワはしばらく考えると、にっこり笑った。

「道端で猫にやられた、って言おうかな」

「……間違いじゃないけど……」


***


 いつものように授業が行われ、昼休み。毎日ではないが、雷奈たちはよく屋上にきて昼食をとる。

「そういえば、素朴な疑問。アワたちって、姿変わるっちゃろ? 人間姿の時に食べたものは、猫姿になったときにどこ行くと?」

「いい質問だね。猫姿になったら、確かに胃は小さくなるけど、食べたものの質量は変わらない。普通に考えたら破裂しちゃうよね。でも、猫姿……ボクたちは『主体』と呼んでいるけど、主体に戻ったときに、一気にエネルギーに変化しちゃうんだ。普通の消化吸収とは違ったプロセスでね。だから心配ご無用。……ところで、ボクからも素朴な質問をしていいかい?」

「なんね?」

「……君のその六段弁当の中身はどこに行くんだい?」

 雷奈は重箱の六箱目を空にしながら首をかしげる。

「うん? 普通に体に入るとよ。私は猫に変化なんてせんし」

「雷奈って、小柄な割にとっても食べるのね……」

 目が点のアワとフー。だが、氷架璃と芽華実にとっては見慣れた光景だ。

「相変わらずいい食べっぷりだよね」

「お昼休み中に食べきっちゃうしね」

(それもすごいけど、朝のどの時間にそんな量の弁当作る暇があるの……!?)

 出来合いのものを持ってきているアワとフーからすれば、そこが疑問だった。と、ふいに、雷奈があっと声をあげた。

「そうだ、氷架璃、数学の問題教えるって約束やったよね」

「あ、そうそう」

 思い出したように雷奈が言うと、氷架璃は持ってきていた数学の教科書を開いた。

「次回までの宿題って言われたこのページ。最初っからわかんないんだよなー」

「あ、それ、私もどうやるんだっけって思ってたの」

「だよなー。去年……っていうか、時間が巻き戻る前、やったはずなのに、復習せずに一年たつとこれだけ忘れるんだなー。ってわけで、雷奈、よろしく!」

「えーっと、ここは……そう、この公式ば使って、これば当てはめて……」

 雷奈は転入当時から成績優秀で、体育や音楽など副教科も含め評価は高い。氷架璃に示された問題も、難なく解いて見せた。

「おおっ、なるほど。さすが雷奈!」

「その要領でやればいいのね」

「でもそれって、中点連結定理を使ったほうが早くない?」

 背後から聞こえた声に、雷奈たちは驚いて振り返る。

「アワ、あんた、のぞいてたの?」

「え、うん、どんな問題だったかなって思って」

「変態」

「なんで!? ごめん、数学の相談って男子禁制だった!?」

 ジト目で氷架璃ににらまれ、アワは少なからずショックを受ける。そんな彼に、雷奈は素直に問いかける。

「アワ、そっちのほうが早いって?」

「うん? えっとね、つまり……」

 結論から言えば、アワの説明は雷奈よりもよっぽど短かった。しかし、論理の飛躍もなく、三人ともすんなり理解。過不足ない、スマートな解説だった。

「アワ……あんた……」

「見直した?」

「答え見たの?」

「どうして是が非でも邪推するの!?」

 泣き出しそうなアワを、フーが慌ててフォローする。

「あのね、アワは数学が得意なのよ。それに私たち、もう義務教育はとっくに済んでるんだから」

「なんだって!?」

 氷架璃が、教科書を放り出さん勢いで驚いた。

「ボ、ボクが数学得意なのが、そんなに衝撃的なの?」

「いや、そっちじゃねえよ! 義務教育が済んでるって、どういう……あんたたち何歳!?」

 少年少女の姿をしているが、所詮は猫たちの仮の姿だ。実年齢は違っていてもおかしくない。

 しかし、フーは「同じ十四歳よ」となだめた。

「フィライン・エデンの猫は、人間と同じ寿命を獲得している。だから私たちの十四歳は、基本的にはあなたたちの十四歳と同じと考えていいわ」

「だったらなおさら、あなたたちも中学三年生じゃないの?」

「さっき、『基本的には』同じと言ったわね。例外的に、私たちは知能などの成熟が早いのよ。人間『以上』といわれる所以の一つ。だからこっちでは、義務教育は六年間で、十歳で卒業したら仕事に就くのよ。例えばリーフ。彼女は店の手伝いとかじゃなくて、正式に家業を継いでいるの」

「だから十四歳のボクたちが義務教育を修了しているのは、おかしくないってわけ」

「すごい、アワもフーも頭がいいのね!」

「芽華実、君のその純真無垢をひとかけでも氷架璃に恵んであげて」

「んだとコラァァ!」

 つい勢いで、アワの両腕をつかんで揺さぶる氷架璃。いつもの調子であれば、ちょっとやそっとの悲鳴では離さなかっただろう。しかし、

「いっ、いだだだ! 離して氷架璃っ、お願い離して!」

 あまりにも必死な切願に、氷架璃は眉をひそめて手を離す。解放されたアワは、涙目で右腕をさすった。氷架璃は恐る恐る問う。

「治ったんじゃ、なかったの?」

「傷はふさがったんだけどね、まだ痛むんだよ。……ごめん、ちょっと冷やしてくる」

 作り笑顔を浮かべると、アワは足早に屋上を後にした。残された一同は、突然静かになったこの場に、言葉を発せずにいた。

「……あの、ね」

 しばらくして口を開いたのは、フーだ。

「先に言っておくと、私は説教するつもりも、同情を誘うつもりもないわ。ただ、さっきの話の延長線上よ」

 彼女はそういうと、悲しげに目を伏せて、話し出した。

「さっき、フィライン・エデンの猫は、普通は十歳で卒業して就職するって話をしたわよね。私たちの友達もそう。家を継いだり、別の仕事に就いたり。まだ学を極め続けたりするひともいるけれど……みんな、そうやって卒業後の四年を過ごしてきているわ」

 フーは、そこで一度口をつぐんだ。何かを待つように。しかし、雷奈も、氷架璃も、芽華実も黙ったままなのを察すると、彼女は悲しげな表情のまま、口の端だけつりあげて、顔を上げた。

「……ねえ、それじゃあさ。人間接待を請け負う二家の正統後継者は、この四年間……どうやって過ごしてきたと思う?」

 訴えるように問いかけるフーの表情に、三人はハッとした。それを見て、フーは満足げに目を細める。

「正解はね、修行の日々よ。人間界について誰よりも精通し、相手がどんな人間でも円滑にやっていくよう。いつ来るかわからないその日のために、自分を磨き続けるのよ。必ずしも自分の代に、選ばれし人間が現れるかはわからない。現れなかった場合は、次の世代に引き継ぐために勉強を重ねる。それが、ほかの職業に就くことを許されない私たち正統後継者の、アイデンティティだから」

 だから、と。軽やかな声で、しかし大切に言葉を紡いで、

「――運命の人間と出会って結ばれることは、大きな幸せであり、とっても誇らしいことであり、そして何よりも……この上ない安堵なのよ」

 人間とパートナーの関係が結ばれる瞬間。それは、自らの存在意義を確かめられるという、幸せと誇らしさを味わうもの。けれど、それ以上に、自分たちが今までやってきたことは無駄にならなかったという安堵でもある。正統後継者の一人、フーはそう言ったのだ。

「……フー」

「ごめんなさい、急に私事を。……でも、私たちはそれくらい本気なのよ」

 彼女はそう言うと、にっこり微笑んだ。

 今の三人には、分かった。

 その笑顔に至るまでに、どれほどの努力を重ねてきたのか。彼女は――そして、彼は。

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