1|始まらなかった日常③

***


 雷奈たちが連れてこられたのは、細い路地裏の奥、袋小路だ。そこに、彼女らは異様なものを見た。

 地面にマンホール大の円形があり、そこから青白い光が放たれている。円形の内部は光で満たされており、地面とは一線を画していた。

「何、これ……」

「ワープフープだよ」

 こともなさげに、青い猫は言う。

「人間界とフィライン・エデンをつなぐポイント。これが見えている時点で、君たちは選ばれた人間ってことの証明だよ」

「他の人には見えんと?」

「見えないわ。見えないし、近づこうともしない。人間のための世界じゃないからね。ちなみに、今となっては他の動物も近寄りたがらないわ。きっと、こちらへきたら強者のテリトリーを犯してしまうと本能で悟っているのね」

 白い猫はそう言うと、雷奈たちを振り返った。

「一度来てみる? ワープすれば、信じてもらえるのではないかしら」

「なっ……」

 息を詰めた後、氷架璃は口角泡を飛ばしてまくしたてた。

「バカ言うなよ! そんなわけのわからんところに行って、帰ってこられなかったらどうすんの!? しかも体に影響があったりするかもしれないだろ!?」

「それはないわ。だって、今までもあなたたちと同じように選ばれた人間はいたもの。彼らもフィライン・エデンと人間界を行き来していたと聞くわ」

「んなこと言っても……!」

「待って、氷架璃」

 氷架璃の前を腕が遮った。雷奈だ。

「私、行ってみるばい」

「雷奈!?」

 彼女は頭一つ分背の高い氷架璃を見上げて、真顔で言った。

「私が行って、もし帰ってこんかったら、氷架璃たちは来なくてよか。この目で確かめてくるけん、待ってて」

「ちょっ、そこまでする必要ある!?」

「氷架璃」

 雷奈は色素の薄い瞳で氷架璃をまっすぐに見つめた。

「私たち、もう巻き込まれとる。私たちだけじゃ、巻き戻った時間の謎はもう分からなか。ここは、事態を共有できる猫たちと関わっといたほうがよかろ」

「……」

「それも、そうね」

 芽華実は不安げにしながらもうなずいた。氷架璃もしぶしぶ了承したのを見て、青い猫は口を開いた。

「じゃあ、ボクたちと一緒にこの円の中に入ってきてくれるかい? 一瞬で向こうに行けるからね」

 彼はそう言うと、ワープフープの中に足を踏み入れた。白猫も続く。

「それじゃ、行ってくるばい」

「気を付けてね」

「なんかあれば電話してよ?」

「電波通じるかわからんよ……?」

 苦笑しながら、雷奈はワープフープに入った。その、直後。

「わっ!」

「消えた……!」

 光が一層強くなったかと思えば、それが収まるころにはもう、一人と二匹の姿は跡形もなくなっていた。本当に、ワープしたのだ。

 二人が唖然としている間に、まもなく再びワープフープが光った。まばゆい閃光が薄らぐにつれて、徐々に雷奈の輪郭が浮かび上がる。帰ってきた雷奈は、興奮気味に二人へ駆け寄った。

「氷架璃、芽華実! 本当に、本当に違う世界につながっとったばい! あれがフィレイン・オデン!」

「フィライン・エデンだよ! 何その高級おでん、フィレ入ってんの!?」

 二匹の猫も一緒に戻ってきたようだ。氷架璃は青い猫に労わるような目を向けると、

「あんた、ツッコミに余念がないな……」

「君たちがツッコませるからだよ! ボクだってもう疲れた!」

 中性的な声でひとしきり叫ぶと、青い猫は仕切りなおすように咳払いをした。そして、真剣な表情――普通の猫よりも表情が豊かで顕著だ――を浮かべ、三人に向き直る。

「もう信じてもらえたかな。フィライン・エデンのこと」

「……まあ、雷奈を疑いはしないし、別世界があるってんなら、あるんだろうな」

「現に、あなたたちを見ていると、もう今までの日常じゃないんだな、って思うわ」

「助かるわ。私たちのこと、そしてフィライン・エデンのことを認めてもらったうえで、私たちがなぜあなたたちに接触したのか、あなたたちを知っていたのかを話すわね」

 白猫も居住まいをただした。

「私の名前は風中かざなかフー。代々、選ばれし人間の接待を担う二家の一つ、風中家の正統後継者よ。私の家系は、選ばれし人間が現れた時、こうして人間界へ出向き、その人間と交流して、フィライン・エデンとの橋渡しになるの。その選ばれし人間は、現れる一年ほど前に神託で知らされる。今回私が知らされた人間が、あなた、美楓芽華実よ」

「私のことを、一年前から……。いったい、私のこと、どこまで知っているの?」

「顔と名前だけよ。ほかのことはまだ何も知らないわ」

「ちなみに、ボクもフーと同様の立場にある。ボクは流清りゅうしょうアワ。二家のもう一つ、流清家の正統後継者だ。ボクへの神託は、水晶氷架璃の顔と名前」

「神託って……誰が神託なんて出すんだよ?」

「文字通り、こちらの世界での『神』かな。ボクたちは『君臨者』と呼んでいるのだけどね。もちろん見たことはないけれど、君臨者の存在を否定するといろいろ説明がつかないから、一般的に存在するというのがこちらの世界での認識なんだ」

 青い猫、アワはひょいと片足をあげた。人間が指を立てて話すときに似ている。

「ともかく、ボクたちは選ばれた人間と交流し、フィライン・エデンの発展に役立つ使命がある。今回はそれに加えて、この巻き戻った時間の謎を解くという追加業務つき。本業については、君たちはボランティアみたいになってしまうけど、追加業務については、君たちにとっても悪い話じゃないでしょ? 困ってるんだから」

「要するに、あんたらの世界の発展と、この狂った時間の謎解きのために、あんたらと交流しろってこと?」

「まあ、そうだね。特に氷架璃、君はボクとはパートナー関係になってもらう。フィライン・エデンの代表として、ボクが君の接待をするよ」

「ふむ」

 氷架璃は事情を呑み込めたようで、一つうなずくと、

「やだ」

「え」

 ぱかっと口を開け呆けたアワに、氷架璃は手をひらひらと振って続ける。

「なんでそんなもんに付き合わされなきゃいけないんだよ。こっちはこっちでやることあんの。時間の巻き戻しについてはそっちの方が詳しいんじゃないの? そっちでぱぱっと解決しといてよ。ね、芽華実」

「え、わ、私は別に構わないんだけど……」

「は?」

 今度は氷架璃があごを外す番だ。芽華実は少し恥ずかしそうに、両手の人差し指同士を合わせた。

「だって、ほかの世界の住人が、私たちと親交を深めようとしてくれているんだよ? なんだか嬉しいじゃない。巻き戻った時間についても、一緒に解決に乗り出してくれるみたいだし、私は協力したいな」

「……あんたって人は……。こいつらがもし、そうやって私たちに取り入って、人間界を侵略しようとする輩だったらどうすんのよ」

「ボ、ボクたちそんなことしないよ!」

「悪者はみんな、口そろえてそう言うんだよ」

 氷架璃は芽華実と雷奈の肩を抱くと、回れ右して、

「狂った時間について調べてくれるのはありがたいけど、わけのわからん世界に巻き込むのはやめてもらえる? ……行くよ、芽華実、雷奈」

「え、ちょ……」

「よかと?」

「いいのっ」

 そのまま振り返ることなく歩いて、路地裏を後にした。

 取り残された二匹は、黙って彼女らの姿を見送っていた。三人が角を曲がり、見えなくなっても、顔を見合わせるでもなく、ただ路地裏の出口を見つめたままだ。

「どうするの、アワ」

「決まってるよ。説得するしかない。彼女は間違いなく神託にあった少女。ボクのパートナーになる人間だ。……それに」

 黒目がちな瞳が、やや剣呑に細められる。

「――もう、目をつけられてる」

 路地の表、雷奈たちが歩き去った道を、四つ足の黒い影が横切った。

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