1|始まらなかった日常②

***


「……さて、どげんすっかね」

 途方に暮れた三人は、T字路で立ちすくんでいた。

 学校で先生に帰されてから、彼女らは必死で、今日が昨日の続きである証拠を探した。けれど、商店街の店主も、近所の知り合いも、みんな今日は四月八日と言い張る。西暦も一年齟齬があった。つまり、今のところ、この事態に気付いているのは雷奈たち三人だけということだ。

「というか、二人とも、家出るとき、家族に何も言われんかったと?」

「うちのジジイとおばあちゃんは、学校行事のスケジュールなんて把握してないからね。普通に、今日から学校なんだと思ってるよ」

「私のお母さんはいつも通り、夜勤疲れで寝てたから何も言われなかったわ。妹は友達の家にお泊りに行ってて、今はいないし。雷奈は?」

「おばさんには、入学式とは言っとらんけん、始業式か何かだと思っとるやろね。どうりで三人とも、学校に行くまで気づかんかったわけったい」

 雷奈の声が沈黙に溶けると、彼女らはいよいよ、最後の可能性に目を向けざるを得なくなった。

 最後の可能性。誰も口にしないが、既に共通認識となっている結論。

「やっぱ……私たちがおかしい?」

 勇気を出した氷架璃の言葉に、雷奈と芽華実は顔を見合わせた。否定したくても否定材料がない。お互い困り果てているのを察する。選択肢は、肯定しかない。

 おそるおそる口を開き、

「うん、やっぱり……」

「私たちが……」


「いーや、君たちはおかしくないよ」


 ――突如、四人目の声が、躊躇いもなく絶望を一刀両断した。

 雷奈たちは反射的にあたりを見回した。しかし、家の立ち並ぶ路地のどこにも、人影などない。

「今……声がしたと思ったんだけど」

「ばってん、誰もおらんったい」

「やべえ、私たち、本格的におかしく……」

「もう一度言うけど、君たちはおかしくない。おかしくなっているのは、この世界さ」

 声は、背後からした。まさか、と思いながら振り向く三人。なにせ、彼女らの後ろには、塀しかないのだ。

 塀の上に人が立っている、というのなら、まだ冗談で済ませられた。

 実際には、塀の上には、二匹の猫がいた。ここまでは問題ない。冗談じゃないのは、声の発生源がその猫であったということ。しかも、そのうちの一匹は、

「なっ……青い、猫……!?」

 比喩でもなんでもなく、水色の毛並みをした猫だった。耳の先端には濃い青の模様まである。どうやら、先ほどから聞こえている、少年のようなやや高めの中性的な声は、この青い猫が発しているようで、その口から同じ声音で言葉が紡がれた。

「やっぱりね。予想できていたよ、その反応は」

「青い猫が……しゃべってる……!?」

「まあ、驚くのも無理はないね」

「触った感触があるばい……夢じゃなか……」

「うん、夢ではないよ。ボクたちは……」

「……毛並み、思ったよりモフモフしとらんかった」

「急にげんなりしないで!? なにそれ、ダメ出し!?」

「あ、こっちの白猫はモフモフばいー」

「ごめんね!? ボク短毛なんだよ! 君はよかったね、褒められてるよ!」

 雷奈に抱きかかえられた、白い毛並みをしたもう一匹の猫は目を細めてジタバタしながら、

「く、くすぐったいってば、ちょ、一回離してぇ……」

「……やっぱこっちもしゃべるんだ」

 氷架璃と芽華実も、茫然としゃべる猫を見つめた。地面に下ろされた白猫は、当たり前のように二本足で立って、目に浮かんだ涙をぬぐった。

「はあ、びっくりしたぁ……急にモフモフされるんだもの」

「そんな哺乳類最強……いや、最嬌の武器さらしといて、なんば言っとーとか。これば目の当たりにしてモフモフせんとか、修行僧の御業たい。っていうか、普通に立っとるけど、何者?」

「それを説明しようとしたんだよ」

 先ほどの青い猫が、軽やかに塀から降りた。

「青いわ、しゃべるわ、立つわ……普通の猫じゃないのはわかるけど」

「素直でよろしい。その通りだよ、ボクたちは普通の猫じゃないんだ、――水晶すいしょう氷架璃」

 最後に付け足された単語に、氷架璃がぴくりと肩を震わせた。いささか警戒した顔で、問う。

「……なんで、私の名前」

「知っているよ。神託があったからね」

「あなたのことは、私のほうに神託があったわ、美楓みふう芽華実」

 芽華実の名を口にしたのは、白猫のほうだ。案の定、芽華実は不安そうな表情を浮かべる。

「……どうして……」

「それも含めて説明しよう。ボクたちはね、『フィライン・エデン』という世界から来たのさ」

「世界? なんじゃそりゃ。まるでこの世界とは別にあるみたいな……」

「氷架璃の言うとおりだよ。要するに、異世界だ」

 映画や小説、フィクションと呼ばれる類にしか存在しないはずのそれを、さも当然のように肯定する青い猫。けれど、雷奈たちは一蹴する気にはなれなかった。現に猫がしゃべっているのだから、異世界くらいあってもおかしくはない。常識の水準は、すでに狂いつつあった。

「……仮にその異世界があったとして、それは何、ファンタジーものよろしく、猫も犬もトカゲもしゃべって歩いて、人間と仲良く暮らしてるわけ?」

 投げ捨てるような氷架璃の問いに、青い猫は真摯に答えた。

「いや、違うね。フィライン・エデンには、猫しかいないんだ。犬もトカゲも人間もいない。完全に猫の世界さ」

「……猫の、世界」

 反芻するように、雷奈がつぶやいた。青い猫はそれにうなずき、ふいに天を仰いだ。日はまだ高く、空は青い。小さな姿の彼からは、人間よりも空が遠く見えていることだろう。

「厳密には、違うんだけどね。別に猫じゃなくてもよかったんだ」

「どういうこと?」

「フィライン・エデンとは、猫が住み着いたからそう呼ばれているけど、本来はどの動物が支配してもおかしくなかった。あの世界の正体は、『人間以外の動物が、人間以上の存在になる世界』だよ。そこにたまたま、人間界の猫が迷い込み、長年過ごすうちに、人間以上の存在になったってわけだ」

「人間以上……しゃべれる以外にも、何か……あっ!」

 突然、氷架璃が声を上げた。そして、びしっと青い猫を指さして、

「あんたらの仕業か!? 一年前に戻ったのは!」

 人間以上、つまり人間と同じか、それを凌駕する何かがあるということ。ややもすれば妙な術を使えてもおかしくない――例えば、時間を巻き戻すといった術。

 しかし、

「違うわ」

 白猫は一言でそれを否定した。

「というより、私たちもあなたたちと同じように戸惑っているの。私たちの世界も、一年前に戻ってしまったから」

「そっちも?」

「ええ」

 だから、彼らは言ったのだ。「君たちはおかしくない」と。この現象に巻き込まれているのは、雷奈たち三人だけではなかったのだ。

「ばってん、なして他の人たちは、気づいとらんと? まるで、人ごと一年前に戻ったみたいに……」

「たぶん、その人たちは本当に一年前に戻っているんだと思うよ。記憶がどのように操作されているかはわからないけど。でも、君たちだけが気づいている理由なら説明できる」

 青い猫は自信ありげに前置きして、

「なぜなら、君たちは選ばれた人間だからだよ」

「……あ、そう」

 胡乱な目をする三人に、青い猫は「あーっ、信じてないな!?」と声を上げる。

「どこから半信半疑なのさ!?」

「まずはそのフィリピン・エデンとやらかな」

「フィライン・エデンだよ! 何その南国の楽園みたいなの!? いや、信じられないのはわかるけどさ……。だったら、来てみる? 一度」

 予想だにしなかった提案に、雷奈たちはたじろいだ。

「え、行けんの? 私たち」

「うん、行けると思うよ」

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