00-02

 覆っていた暗幕が突風で飛んでいったかのように、少年を囲んでいた暗黒が消え去る。視界が一気に広がった。


 闇の外は、また暗い世界。

 まるで真夜中に卵の殻を破った雛鳥のような、不思議な感覚だった。


 しかし、暗いことには変わりはなかったのだが、周囲の光景は先程までとは明らかに異なっていた。


 あたりは完全なる漆黒ではなく、閉塞感もない。

 無限の広がりを感じさせる空間は、夜明け前のようにほんのわずかに青みを帯びている。

 空を飛んでいるような浮遊感があり、正面から激しい突風がひっきりなしに吹きつけている。


 全方位に広がるダークブルーのヴェールには、大きな風穴がぽっかりと空いていた。輝きが燦然と差し込んでいる。

 それは太陽だった。闇が支配する空間においても、ひけをとらない存在感を示している。


 太陽から下は黒から藍、藍から青のグラデーションになっており、目で追っていくと、これから降下するであろう惑星が、足元にあった。


 澄み切った青に覆われた、地球のような星だった。

 星の丸みがわかるほどの高高度。ミニチュアより現実感のない、薄雲に覆われた衛星写真のような大地が眼下に広がっている。


 このような状況においても、少年は眉根を寄せるだけだった。

 表情では全く動じていなかったが、頭の中はそうではなかった。


(うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?!?!?)


 人並みの驚愕。いまだかつて体験したことのない高さからの眺めに、心の中で絶叫する。


(た、高っ!? 高っかああああああああっ!? 4万メートルってのは……マジだったのかよっ!?)


 内心大騒ぎではあったが、表には一切出さない。それが彼のポリシーである。

 心は暴れていたが顔は取り乱すことなく、身体は引力に身を任せていた。


 愛用のコートは正面からの風を受け、旗のようになびく。

 袖は通していないが肩でボタン留めしてあるため飛んでいくことはない。


(ここは成層圏? とんでもねぇ高さだってのに……ゼンゼン痛くも熱くも苦しくもねぇ! 息も普通にできるぞ!? このバリアみたいなやつのおかげか!?)


 球形の薄赤い皮膜が、まわりで揺らいでいる。

 赤熱した吹きガラスの中にいるような感覚。この外は生身だと1分と生きられないだろう。

 絶え間なく向かい風が吹いているにも関わらず、身体は流されずに真下に下降しているのもバリアのおかげだろうか。


(あのガキども、見た目はかなりかわいかったけど、宗教勧誘のガキみたいにウサン臭かったから用心してたんだが……まさか本当に天使と悪魔だったのか……!)


 不思議な力により安全だとわかって余裕が出てきたのか、スカイダイビングを楽しむセレブのように、ゆったりと身体を大の字に広げる。


(しかし、死んじまうとは……ドジっちまったな。ホワイトハウスでの成りすましがバレちまって、芋づる式にいままで積み重ねてきた嘘もバレちまったんだよな。

 トラックを奪って逃げたまではいいが、まさかCIAとFBI、SWATにSEALsまで待ち構えてたのは予想外だったぜ……。

 『GTA』だったら手配度レベル10くらいの状況でカーチェイスするハメになるとは思わなかった。

 しかもハンドル操作を誤って、フロントガラスから飛び出しちまったんだよな……そのまま惰性で進んできたトラックに轢かれちまうとは……みっともねぇ幕引きだったぜ……)


 新たなる目覚めを迎えたかのように、少年は目を見開いた。


(でもまさか、トラックで死んだら異世界に行けるなんて……知らなかったぜ!

 どんな世界だか知らねぇが……俺を知るヤツは誰もいねぇ!

 まさに強くてニューゲーム! 前世で鍛えた手練手管で、ガンガンのし上がっていってやる!!)


 これから降り立つ惑星を掌握するように、悠然と手をかざす。


(たとえ失敗しても……またトラックに轢かれりゃリセットできる……ハハッ、こりゃ運が向いてきたぁ……!!)


 何者もいない宇宙、音すら存在しない虚空でひとり、ニヤリと顔をほころばせる。


(この世界にはトラックはありませんよ)


 不意に、女の子の声が割り込んだ。


「……誰だ?」


 少年は思考を中断し、あたりを見回す。

 確かに声がしたはずなのだが、誰の姿も見当たらない。


(自分の運転してるトラックに轢かれちゃったんだー!? アハハハハハハ!)


 さらに別の女の子の高笑いが聞こえる。

 その耳障りな笑い声には聞き覚えがあった。


「……ルク、プル、貴様らか」


(はい。あなたの身体に憑依させていただきました)


 少年の脳内に、淑やかな微笑みを浮かべるルクの顔が現れた。


(今まででいちばん面白い子だったね、って話になって、ついてっちゃおうかってことになったんだ)


 続いて、プルの弾ける笑顔がポコンと出現する。


(メニューで選ばれたわけではないので憑依という形をとらせていただきました。手助けもほとんどできませんが……どうかご一緒させてください)


「許さん! 今すぐ消えうせろ!!」


 少年は鬼の形相でガンを飛ばす。

 睨み合いであれば、目からビームを出す相手にも負けないであろう彼であったが、敵が頭の中ではそれも通用しない。


(あの、わたくしたちはあなたの中におりますので、声に出さなくても頭の中で思うだけでわたくしたちには伝わりますよ)


「俺様に指図するな!!」


 少年は強がったあと、すぐに脳内会話に切り替えた。


(勝手に俺の頭の中に入ってくんじゃねえっ! 今すぐ消えろ!)


(ヤだもーん。でもキミ、頭の中ではよくしゃべるねー)


(頭の中で無口なヤツなんているか!? いたらただの何も考えてないアホだろ!?)


(そのくらい饒舌なほうが、お友達もできると思いますよ)


(大きなお世話だっ! 出てけっ! このっ、このこのっ!!)


 頭の中のよそ者を追い出すべく、自分の頭をボカボカと殴りはじめる。


(アハハハハ! そんなことしてもムダだよーん)


(ああっ、そんなにご自分を責めないでください)


(……くそっ! かわいいし、なんだか強そうだったから連れて行こうかと一瞬思ったりもしたが……前世の俺のことを知りすぎてて都合が悪ぃから、やめたんだ……そんな奴らがついてくるなんて、ありえるかよっ!? ……って、しまった、この声も聞こえてるのかっ!?)


(はい、思考はすべて、わたくしたちに聞こえています)


(筒抜けだよーん。もう、なんだよぉ、都合が悪いって!)


(ウゼェ……いったいどうやったら追い出せるんだ!?)


(この世界であなたが亡くなられたら、必然的にそうなります)


(いま張ってる魔法壁を解除してあげよっか? そしたら望みどおりになるよ?)


「来た早々死ねってのかよ!? ふざけんなっ!!」


 少年は頭の中で叫んだつもりだったが声に出してしまい、しまったと舌打ちした。


(お、俺としたことが!? くそっ、外で起きてる事だったら何事にも動じないのに……頭の中で起きてることだから、どうも慣れねぇ。つい熱くなっちまって声に出ちまう……! こんなヤツらに付きまとわれたんじゃ、せっかくの新しい人生が台無しじゃねーか!)


(ええーっ、そんなことないよー! きっと楽しいって! ボクたちすっごいウキウキしてるのに! ねっ、ルク?)


(はい。それにわたくしたちは、これから向かう世界の知識がありますので、多少はお役に立てると思いますよ)


(そうそう! あっ、それにキミが好きそうな翼も生やしてあげたんだよ! ホラホラ、背中見て!)


(生やしてあげたというか……わたくしたちが憑依すると、自然とそうなってしまうんですけどね)


 少年は首を捻ってみる。すると、左の肩甲骨のあたりからプルと同じ天使の翼が、右の肩甲骨のあたりからルクと同じ悪魔の翼が生えていた。


(あっ、カッコイイ!? ……って、そうじゃねぇ! 何て事しやがるんだ!)


 怒鳴ってはみたものの、心の中の本音が出た後では意味がない。


(アハハハハハハハ! やっぱりー! キミ、こういうの好きだよね! 髪型と服装でだいたいわかっちゃった!)


(お気に召していただけたなら、なによりです)


 少年は、他人の些細な仕草や態度で思考を読みとるのを得意としていたが、されるのは初めてのことだった。

 思考を覗かれるのはこんなにも恥ずかしく、悔しいものなのかと、ギリギリと歯噛みをする。


(くそっ! ワケのわからねぇことが次々起こって、気持ちの整理が追いつかねぇ……だが、焦ったらドロ沼だ。ひとまずコイツらのことは放っとこう。落ち着いてから、ゆっくり追い出す方法を考えるんだ。まずはいつもの自分を取り戻そう……ストロングで強靭、クールで冷静な俺を)


(同じコトを2回言ってるだけのような気もするけど、がんばれ~!)


(トートロジーというやつですね、わたくしたちも応援させていただきます。もちろんトートロジーのことではなくて、あなたのことを)


 少年がなにを思ってもふたりの少女は出て行くつもりはないようだ。

 その慇懃無礼な態度に思わず怒鳴りつけたくなったがグッと堪える。また声に出てしてしまうところだった。


 言葉を武器にする少年にとって、セルフコントロールができないのは致命的だ。

 頭の中の居候に何を囁かれても、思ったことをそのまま口に出すのだけはやめようと固く心に誓う。


(あ、そろそろ地上が見えてきたよ)


 プルに言われて、少年は思考を中断した。


 頂点の高さになった太陽を背に、行き先を見やると、周囲を大陸に囲まれた十字形の島が見えた。


 あの島が落下点だなと思っていると、そこから先はあっという間だった。

 迫りくる地上はすでに見慣れた高さになっている。


 テキサスの荒野のような渇いた大地が広がり、切り立った岩山が立ち並ぶ。

 少年はあたりに人気がないのを気にしたが、ぐんぐん迫ってくる岩肌に、すぐに別の心配が湧いてくる。


(や、山に突っ込むぞ……! ほ、本当に、このまま着地しても大丈夫なんだろうな!?)


(はい、ご安心ください)


(意外とビビリなんだねー)


 砦のようにそびえ立つ台形の岩山。頂上は平らになっており、井戸くらいの小さな穴が空いていた。

 少年の身体は包み込んでいる球体ごと、狙いすましたかのように風穴めがけて突っ込んだ。


(うおっ!?)


(おおっ、ホールインワーンっ!)


(お見事です!)


 うねりなく一直線に穿たれた穴はどこまでも続いており、底が見えないほど深かった。


 少年が岩山に吸い込まれてしばらくして、穴から間欠泉のような炎が噴出する。

 天を衝くほど高くあがった火柱は、奇跡のような光景として多くの人々の目に止まった。


 人々はさまざまな憶測を交わす。

 神が降り立ったと噂する者もいれば、悪魔が攻めてきたと騒ぐ者もいた。

 新たなる世の始まりだと噂する者もいれば、この世の終わりだと騒ぐ者もいた。


 少年が選んだメニューの「派手になる」はまがい物ではなかった。

 この島のすべての人々が、彼がこの世であげた産声を目撃していたからだ。

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