ジャイアント・マウス

佐藤謙羊

00-01 プロローグ

 少年は、黒に満たされていた。

 焼野の鴉よりも、濡れ葉の黒薔薇よりも色なき闇に。


 ここがどこかも、何時かもわからない。

 五感が封じられたかのように、何の感覚もない。


 ただ、形容のしがたい常闇だけがそこにある。

 味も、匂いも、音も、肌触りもないのに、たしかに感じられる、羊水のような頻闇しきやみ


 毛穴から入り込んで身体の内までもを満たし、血に取って代わるような姿なき黒煙。

 このまま身体が溶けて無くなってしまうのではないかと錯覚するほどの、すべてを侵食するような冥暗。


 完全無音の中に放り込まれると、人間は45分で発狂するという。

 呼吸と同じように、人は無意識のうちに音を求めている。

 音なき世界は水中と同じ。酸素を求めてもがくように、自らの鼓動、肺の収縮、そして血液の流れまでもを聴覚化しはじめ、そしてついには幻聴を生み出す。

 自分の吐いた二酸化炭素を酸素と信じ込むように、自分の生み出したありもしない音を、音として聴くようになるのだ。


 少年が置かれた状況はそれより遥かに過酷であった。

 聴覚だけではない。嗅覚と視覚、そして触覚までもを奪われているのだ。


 常人ならば正気を失うのに45分もかからない、理解の及ばない空間。

 でも少年はうつむき気味のまま、眉ひとつ動かさなかった。

 ただただ不機嫌そうな、険しい表情を顔に貼りつかせていた。


 不意に、青白いシルエットが浮かび上がってくる。

 こぢんまりとしたそれは、じょじょに人の姿になっていく。

 やがて、ふたりの少女の姿になった。


 少年は眼球だけギロリと動かし、突如現れた蜃気楼のような存在を上目遣いに睨みつける。

 その眼光は、研ぎ澄まされた妖刀のように不気味で、鋭かった。

 これが往来であれば、ヤクザでも避けて通るであろうほどの威圧感がある。


 しかし、抜き身の刃のような視線を向けられているにもかかわらず、少女たちは怯まない。

 それどころか、自分を強く見せようと懸命に威嚇する子犬に出会ったかのような、可愛さのあまりつい噴き出してしまったクスクス笑いを浮かべている。


 彼女たちはにこやかに顔を見合わせたあと、親しげに少年に声をかけてきた。


「こちらにいらしたんですね、さがしましたよ」


「あはは、やっと見つけたよー! もう、大変だったんだからー!」


 探していた迷子を見つけたお姉さんのような態度。


 しかし、少女たちは小学校中学年くらいの幼い顔だちをしており、明らかに少年よりも年下のように見えた。背丈も少年よりやや低い。


 全身からぼうっと光を放ち、水面に映し出されているように揺らいでいる。

 話し声にあわせて、波紋のようなものが身体の中央から広がった。


「わたくしはルク。こちらはプル。ふたりあわせてルクプルとお呼びください」


 少年の左手にいた女の子が自己紹介をはじめる。夜風に揺れる風鈴のような、耳にやさしい落ち着いた声だった。


 腰まで伸びた金髪のストレートヘアと、夜の海に漂うサファイアのような深い青さの瞳。

 透き通る柔肌を、白いレースのドレスに包むルクと名乗る少女。


 良家のお嬢様風の、楚々とした雰囲気が滲み出している。

 巨大コウモリのような黒い翼が背中から生えているのがアンバランスだった。


「えーっ、ちょっとぉ! なに勝手に決めてんのルク! ふたりあわせてはプルルクだよ!」


 少年の右手にいた女の子が不服そうに口を挟んできた。福引で特等を引いたハンドベルのような、心踊る賑やかな声だった。


 彼女は自分が先だと言わんばかりに一歩前に出る。


 切り揃えられた銀髪のショートカットと、血の海に沈んだルビーのようなダークレッドの瞳。

 血色の良い健康肌を、黒い革のドレスに包むプルと名乗る少女。


 わんぱく少年風の、溌剌とした雰囲気が弾けている。

 天使のような白い翼が背中から生えているのがギャップを感じさせた。


 ルクとプル、ふたりの少女は双子のようにそっくりだった。

 まだまだ童蒙さを隠せぬ年頃ではあったが、このまま相応に年を重ねれば絶世の麗人になることが容易に想像できるほどの美少女であった。


 しかし……タレ目とツリ目、優雅と溌剌、金と銀、青と赤、白と黒、天使と悪魔……見目の印象は正反対。

 なおも睨み続けている少年も、密かに同じ感想を抱いていた。


「それにしてもキミ、変わった格好してるねー、赤が好きなの?」


 ボンテージ風の自らの格好は棚に上げて、馴れ馴れしい口調で少年に話しかけるプル。


 宝石のような瞳をクリクリさせながら、少年の頭のてっぺんから足のつま先まで何度も視線を往復させている。

 隣のルクも同じように見つめていたが、その視線は品定めしているかのようであった。


 少年の髪はくすんだ白。ボリュームのある毛量をウルフカットで揃えており、真冬の白狼のたてがみを彷彿とさせる。

 服装は黒いワイシャツと白いズボン。

 上から長ランのようなボタン留めの灰色のロングコートを、袖を通さずマントのように羽織っている。

 ドブネズミの腹毛のようなライトグレーの瞳は強い眼力があり、不気味な青白い肌がそれをより強調していた。


 少女たちに挨拶も返さず、問いにも答えない無愛想な態度。

 ひたすら口を閉ざしたまま、威嚇するような視線を向けるだけであった。


 いくら話しかけても少年はむっつりとしたままだったので、プルはあきれたように肩をすくめる。


「もうっ、この子ずーっと難しい顔してる……状況が見えてないんじゃない? ルク、ここがどこか教えてあげなよ」


「はい、わかりました」


 プルの提案に素直に頷くルク。

 客を迎えるキャビンアテンダントのように姿勢を正し、少年のほうをまっすぐ見据えた。


「突然で戸惑われているかもしれませんが、ここはいわゆる『死後の世界』です。あなたは亡くなられました」


「信じてない? ま、無理もないね、でも嘘じゃないよ」


「ここではわたくしとプルが、亡くなられた方を天国か地獄にご案内する場所です」


「びっくりした? だけどキミは天国と地獄、そのどっちでもないんだ」


 端的なルクの説明と、都度入るプルの合いの手。


「あなた……お名前は……?」


 ルクは問いかけたが、少年は相変わらず貝のように口を閉ざしたままだった。


 依然としてコミュニケーションが成立していないが、ルクはさして気にする様子もない。

 おもむろに手をかざすと、どこからともなく革張りの高級そうな本が出現し、空中でパカッと開いた。


 ちょっと高い位置に出現してしまったので、背伸びして本を覗き込むルク。ページに指を這わせ、何かを探しはじめた。

 プルが頬をくっつけ合わせるようにして覗き込んでくる。


「えっと……名前は……なんて書いてあるの?」


「『初恋ウィレンチェリー』さんですね。ハーフの方のようですね」


 それまで怖い顔と無言を貫いていた少年だったが、ここで初めて「フッ」と鼻で笑う反応をした。


「おおっ、しゃべった!? なんだ、しゃべれるんじゃんキミ!」


 しゃべったというよりは息を吐いただけだったが、プルは大げさに驚いてみせる。

 しかし、少年はその反応すらも嘲るかのように、唇を歪めた。


「……俺様は、バーニングゴールド・スメラギ……人違えとは、ズサンな天使と悪魔もいたものだな」


 その声は眼光と同じく、鋭く重々しく、高圧的だった。

 ドスの効いた声を競うオリンピックがあったなら、金メダルを取れるほどの低くて太い声。


 しかしプルは何の気兼ねもなく、ピッと少年を指さす。


「なにがバーニングゴールドだ、キミが大ウソつきだってのはバレてるんだぞ! このハッタリ君!」


 叫んだのは、少年のかつてのアダ名だった。


「ハッタリ君の他には……狼少年、インチョキ堂、ホラッチョ、ドブネズミ、詐欺ポックル……などと呼ばれていたようですね」


 古傷を抉るかのように、過去の蔑称を容赦なく発表するルク。

 全て図星だったのか、少年は再び黙りこんでしまった。


「……もう異論はないですか? では、説明を続けます」


 読み上げるような口調で、ルクは続ける。


「あなたは4月1日生まれで享年16歳、両手利き。死亡時の身長138.2cm、体重30.8kg」


 身長のくだりで「オトナなのに、ちっこいね!」と反応するプル。


「2歳の頃から芸能界で子役として……と、生い立ちは別に確認する必要はありませんね」


 ルクは気を取りなおすように小さく咳払いをし、ペラペラとページをめくった。

 ぎっしり並んだ経歴を読み飛ばしていき、終端で目を止める。


「えっと……アメリカはメリーランド州のウッドロウ・ウィルソン記念橋の上でトラックに轢かれて亡くなりました」


「なんでそんなところにいたのー?」


 プルは懲りずに問うが、まるで当然であるかのように黙殺され、プクーと頬を膨らませた。

 ルクは本から顔をあげる。


「トラックに轢かれて亡くなられた方は天国にも地獄にも行きません。かわりに異なる世界に行きます」


「……異なる世界だと?」


 唸るような声で聞き返す少年。

 その言葉には「ふざけたことを言うな」という怒気が込められていた。


「異世界ってやつだよ。知らない? キミが住んでたのとは別の世界のことだよ! そこに送ってあげるから、あとは好きなように生きてっていいよ!」


 あっけらかんとしたプルの説明に、少年は「フッ」と鼻息で応える。

 仁王立ちのまま「やるならさっさとしろ」と憮然と言い放つ。


 少年のふてぶてしい態度に最初は腹を立てていたプルも、ついに唸った。


「うぅ~ん、それにしてもキミ、全っ然動じないね~。今までここに来た人はもっとワタワタしてて、パニックになって、逃げまわって、マトモに話もできないんだよね~」


 アメリカにいたはずなのに、突然どこともつかぬ場所に連れてこられた少年。

 わけのわからないことを言われ続けているというのに、堂々とした態度を崩さない。


「ジャレつくな下っ端、俺様を凡百の人間と一緒にするな。下っ端の貴様の仕事は俺様を異世界へとエスコートすることだろう? ……ならばさっさとせんか!」


 それどころか本人的には自分のほうが立場が上だという態度で、ふたりの少女を叱りだす始末だった。

 ひたすら自分を貫くその姿にプルは感心しかけていたのだが、命令口調にはさすがにカチンときたようだった。


「もー、この子ウザイ! 話聞かないし、答えないし、しゃべったと思ったら威張り散らすし! ルク、さっさと送っちゃおうよ!」


「おふたりとも、落ち着いてください。あと少しだけお伝えすることがありますので、もうちょっとだけ我慢してください」


 ふたりの間を取り繕いつつ、ルクは説明を再開する。


「異世界へは亡くなったときに持っていたものを全て持って行くことができます。服装や外見も変わりません。身体能力なども同じですが……」


 ルクは言葉の途中で、まっすぐに手をかざした。

 すると本が鳥のように羽ばたいて、少年の方を向いた。開いたページが眼前に突きつけられる。


「身体能力などは同じなのですが、ひとつだけボーナスを得ることができます」


 羊皮紙っぽい紙面には、レストランのメニューのような文章がずらずらと並んでいた。


 より腕力を得る

 より知能を得る

 より素早くなる

 より器用になる

 より視力が良くなる

 より聴力が良くなる

 美貌を得る

 美声を得る

 富を得る

 ふたりの同行者を得る  ←オススメです

 食事が不要になる

 睡眠が不要になる

 性行為に強くなる

 動物を従えられる

 植物を従えられる

 空を飛べる

 水中でも呼吸できる

 派手になる

 地味になる

 透明になる


「その中からひとつ、お好きなものをお選びください。その能力を差し上げます。能力アップ系はだいたい10倍くらいになるとお考えください」


 少年は黙って項目を睨めつけていたが、しばらくして口を開いた。


「……ふたりの同行者というのは何者だ?」


 『ふたりの同行者を得る』の横には、丁寧な手書きの字で『オススメです』と書き加えられている。


「わたくし達です。いまは思念体ですけど、実体化して異世界に同行します。いろいろと幅広くサポートさせていただきますので、メニューの中ではいちばん良いと思いますよ」


 セールスレディのような口調で自分たちを売り込むルク。


「言っとくけどボクらは超強いよ! ボクは攻撃魔法をいっぱい使えるし、ルクは治癒魔法がすっごいの!」


 拳まで振り上げて熱弁するプル。


 調子に乗ったプルがパチンと指を鳴らすと、まるで火打ち石のように火花が散る。

 直後、炎がボッと燃え上がり、渦巻く熱気が少年の頬をかすめた。


 ちょっとしたイタズラだったが、少年は殺気の込められた瞳を返す。

 「わぁ、コワイコワイ」と大げさに震え上がるプル。


「……派手になる、地味になる、というのは何だ?」


「ああ、それはいちばん不人気のやつですね。異世界での生活がいろいろと派手になったり地味になったりします。例えばですけど、異世界へ降り立つときには大きな衝撃が土地に及ぼされるのですが、その衝撃がさらに大きく、うるさくなります。逆に地味を選んだ場合は衝撃は大人しく、静かになります。……いずれにせよ他のメニューと比べると明らかに有用度が低いので、これを選んだ方はいまだにおりません」


「……よし、『派手になる』だ」


「えっ」「ええっ」


 少年の出した答えの意外さに、思わずハモるルクとプル。


「俺様は『派手になる』を選ぶぞ」


「えっ、それでいーの? そんなの何の役にも立たないんじゃ……」


「そうですよ。もっとしっかりお考えになったほうが……」


 慌てて止めようとするふたりに対し、少年は「くどい!!」と一喝する。


「俺様に二言はない……何度も言わせるな!! さっさと異世界とやらへ案内せんか!!」


 怒鳴られて黙ってしまうルクとプル。ふたりが主導していたはずのペースは一気に逆転する。

 少年の下した決断に対して狼狽し、顔を見合わせるふたりはまるでワガママな主人に振り回される召使いのようであった。


 ルクとプルは、聞き分けのない子供をなだめるように説得にかかったが、けっきょく少年の意思を変えることはなかった。


「……わかりました。ではあなたに『派手になる』能力を付与いたします」


 ルクは振り込め詐欺を止められなかった銀行員のように、あきらめ気味に承諾する。

 プルは最後まで納得がいかない様子でブツブツ言っていたが、ルクに諭されて渋々従った。


 ふたりの少女は手をとりあい、少年に寄り添って呪文のようなものを詠唱しはじめる。

 少女たちがまとっている光と同じものが、少年の身体にも現れた。


「……これで全ての説明と準備が終わりました。この後あなたの足元に穴が空いて、異世界の空へと飛び出します。高さにしておよそ4万メートル……とても高いところからの落下になりますが、魔法のフィールドで覆われていますので呼吸もできますし、熱くも冷たくもありません。それと、地上に落ちても痛くありませんから安心してくださいね」


 4万メートル、という単語に少年は眉をひそめる。

 しかしそう思ったときにはすでに足元の黒い床はなくなっており、身体は高高度に投げ出されていた。

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