第9話 母の面影

 

「…………お母様」


 クレア皇女が、顕現した自分の悪魔に向かって呆然と呟いた。

 愛しさと怒りと苦しみが混じったような複雑な表情だ。


「なんで…? その顔はあの女の…!」

「いいえ、違います。わたくしは貴女様の契約悪魔です」


 真紅の悪魔がおっとりと微笑む。クレア皇女は複雑そうに顔をしかめ、背けた。唇を噛みしめている。

 自分の感情がよくわからない。心がぐちゃぐちゃ。そんな風に見える。

 クレア皇女の周囲がユラユラと揺らぐ。動揺による無意識の魔力放出が始まった。

 どうやら、悪魔の姿がクレア皇女の母親に似ているらしい。

 ローゼンヴェルグ皇国の皇王の妻、クレア皇女の母親は、確か十年ほど前に亡くなっているはずだ。


「なになに? クレアちゃんの知ってる人に似てるの~?」


 アベルが微妙な空気を察することなく、クレア皇女に踏み込んでいった。

 いや、アベルは絶対にわかってて、あえて質問したな。


「……別に。全然知らないわよ」


 苦しそうなクレア皇女の顔。言葉も絞り出すように苦々しかった。

 複雑な何かがあるらしい。


「そうなのぉ~? お母様って言ってたよぉ~」

「言ってないわ!」

「えぇ~? でもでもぉ~クレアちゃんのお母さんって死んじゃってるんでしょ?」

「そうよ! それがどうかした!?」

「好きじゃないの?」

「大っ嫌いよ、あんな女! 母親でも何でもないわ!」


 泣きそうな金切り声の叫び声が部屋に響き渡った。

 クレア皇女は、自分が酷く辛そうな顔をしていることに気づいていないだろう。

 心が乱れたクレア皇女の身体から、熱波が放出される。陽炎が揺れる。

 母親に似ているというクレア皇女の悪魔は、おっとりと優しげに契約者に微笑みかけている。


「なるほどねぇ~。だからクレアちゃんの悪魔はお母さんの姿なんだぁ」

「……どういう意味よ!」

「悪魔っていうのはね、契約者の心の底のイメージに引っ張られるの。心の奥の想いや願いや欲望や願望が悪魔として形作るの。お母さんの他にも、クレアちゃんは自分のスレンダーな身体にコンプレックスを持ってない?」

「そ、それは…」


 言葉が途中で消える。自分の細い身体を見下ろし、そして悪魔の豊満な身体を見る。

 無意識に、羨望と嫉妬の感情が紅い瞳に渦巻いている。


「持ってるみたいだね。でも、胸に貴賤はないよ!」


 アベルはニヤッと笑ってサムズアップをした。

 確かにアベルの言う通りだ。胸に貴賤はない。小さい胸も誇っていい! とても可愛いじゃないか!

 それに、クレア皇女はとてもスラッとして綺麗じゃないか。モデルみたいだ。


「お兄ちゃんはどう思う?」

「俺はちっぱいも大好きです!」

「だよねぇ~!」

「ちっぱい言うな! わ、私は着やせするタイプなの!」


 俺はクレア皇女がちっぱいだなんて言ってないんだけど。

 でも、ふむふむ。数多の女性を見た俺の目によると、クレア皇女はおそらくBカップだ。服の上からだから詳しいことはわからないが。

 いや、もしかしたらもっとあるかもしれない。クレア皇女は細いから、トップとアンダーの差が大きいかも。


「はぁ…下僕げぼくたちと喋ってたら調子狂うわ。なんかもうどうでもよくなってきた」


 クレア皇女は頭を抱えて、深いため息をついている。

 無意識に放たれていた魔力が鎮まった。

 梅雨の湿気よりもじっとりとしたジト目で俺たちを睨みつけてくる。


「あんたたち、わざとやってるでしょ?」

「んみゅ? 何のこと~? お兄ちゃんわかる?」

「わかんない」

「………まあいいわ。今回は問い詰めないことにする」


 ありゃりゃ。いろいろとバレてしまってるみたい。

 ちょっと不謹慎だとは思ったけど、クレア皇女の心が不安定になって、魔力暴走の危険があったから、アベルがわざとふざけて話を逸らしていた。


「さっさとご飯を食べましょ。貴女…名前は?」


 クレア皇女が自分の契約悪魔に名前を尋ねる。

 紅炎プロミネンスを放つ真紅の美女は、おっとりと微笑んだ。


「名づけはまだできませんので、お好きなようにお呼びください」

「名づけ?」

「それは、悪魔に名前を付けることだ。今のクレア皇女は悪魔憑きソルシエール(仮)みたいな感じなんだ。多分、明日のホームルームで説明があると思う」

「そう。わかったわ。じゃあ、今はプロミネンスと呼ぶわ」

「わかりました」

「プロミネンス、椅子に座ってちょうだい。ご飯食べましょう。お腹が減ったわ」

「かしこまりました」


 真紅の悪魔が優雅に椅子に座った。ドレスから噴き出す紅炎プロミネンスは物を燃やすことはない。

 俺たちは手を合わせて挨拶をし、夕食を食べ始める。

 今日はご飯にみそ汁に焼き鮭。和食にしてみました!

 クレア皇女がお箸を使えるか不安だったけど、普通の日本人よりも綺麗に使えている。


「……美味しいわね。これが本当のワァショクゥなのね」

「これが食事ですか。美味しいです」

「それは良かった。作った甲斐があったよ」


 美人が美味しそうに食べてくれただけで、俺は嬉しい。

 クレア皇女と真紅の悪魔が目を丸くしてパクパク食べている姿は微笑ましい。癒される。

 アベルは一切言葉を喋らず、美味しそうに顔を緩ませながら黙々と食べている。


下僕げぼくにしてはやるじゃない。城の料理よりも美味しいわ」

「でしょでしょ! お兄ちゃんの料理は世界一なんだから! 一度食べたらやめられないよ」

「…………変な薬とか入れてないわよね?」

「そこは信用してくれよ。料理に変なものを混ぜたらアベルがキレるから絶対にしないぞ」

「私は食べ物にはうるさいのです! 入ってるとしたらお兄ちゃんの愛情かな」


 ふむ。確かに愛情はたっぷりと入っておりますぞ!

 料理の隠し味とも言いますし、笑顔で食べてくれる姿を想像しながら作っております。

 想像以上の笑顔だったので、俺は今、猛烈に嬉しいです。


「お兄ちゃん。いつも美味しいご飯を作ってくれて、ありがとぉ~! 大好きだよぉ~!」

「アベル~俺も大好きだぁ~!」


 俺は可愛いアベルをナデナデする。

 食事の手を一切止めずにモグモグしているところも可愛いなぁ。


「何なのよ、この茶番は」


 呆れた様子でクレア皇女がため息をついている。

 そんなにため息ばかりついていると幸せが逃げていくぞ。


「ねぇ。下僕げぼくたちは今日契約したんじゃないの?」


 おっと! つい気が緩んでバレてしまったぜ。

 でも、こういう場合も想定しております。


「んみゅ? 契約したのは随分前だよ」

「俺たちは例外だな。ちょっといろいろあって、入学前に契約したんだ。だから担任のミクル先生とも知り合いなんだ」

「ふぅ~ん」


 クレア皇女はあまり納得はしてなさそうだけど、一応信じることにしたらしい。

 実際、一桁の年齢で悪魔召喚を独自に行った例もある。

 小さい子が大人から無理やり悪魔召喚をさせられた例もある。

 そういう例だと誤解してくれるといいんだが。


「さっき、心の奥の想いや願いや欲望や願望が悪魔として形作るって言ったわよね? 下僕げぼくは妹が欲しかったの? シスコン? やっぱりジャパニーズオタクだから?」

「そのとぉ~り! お兄ちゃんは自他ともに認める超絶なシスコンなのです! あっ、ちなみに私は自他共に認める超絶なブラコンね!」


 嘘と真実の半分半分を言ったアベルに俺は軽くチョップを落とす。

 あぅ、と可愛らしい声を漏らしたアベル。とても可愛い。


「シスコンなのはあっているが、違うだろ、アベル。まあ、簡単に言うと、実の両親に妹を殺されたんだ。両親は現在も逃走中」

「………はぁっ!? そ、そんなあっさりと言うことなの!?」

「今は心の整理ができてるからな。立ち直るのに長い時間かかった。世界なんか滅べばいいって思ったこともある。でも、俺にはアベルがいる」


 俺は愛しの契約悪魔パートナーの頭を優しく撫でる。

 アベルは気持ちよさそうに目を細めた。


「いつか両親を見つけて、監獄にぶち込む。それが俺の目標」


 全く…あのクソジジィとクソババァはどこにいるんだか。

 あの二人が簡単に死ぬわけないし、絶対に見つけ出して報いを受けさせてやる。


「そう…なのね…」

「俺もそれなりに人生経験積んでるから、何か相談があったら聞くぞ?」


 クレア皇女は、おっとりと微笑む母親似の契約悪魔を一瞥する。


「…………考えておくわ」


 クレア皇女は上品な動作で焼き鮭を口に運ぶ。そして、頬が緩む。

 この後、湿っぽい話は話題に上がることなく、楽しい夕食の時間を過ごした。

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