218.Cloud9


 驚くことに怒りは鎮まりつつあった。

 足元に揺蕩う冷気がそうさせるのか、それとも他の――などと。

 こんな誤魔化しは回りくどいことこの上ない。


(決まってる)


 倒すこと、それ自体が目的ではなくなったから。

 この黒幕を倒したらきっと訪れるだろう未来。それを掴むための戦いへと心が定まったから。

 みんなで楽しくゲームがしたい。そんな子どもみたいな願いを抱いてミサキは拳を握りしめている。


「はああああっ!」


 冷え固まった溶岩を踏み抜く勢いで脚を振り下ろすと、そこから地を這う氷が生じ、黒幕へと突き進む。

 しかしその侵攻はのっぺりとした壁に遮られる。

 氷は砕け、周囲に冷えた白煙を撒き散らした。


 瞬間、黒幕は背筋にぞくりとした悪寒を味わう。

 白煙のわずかな揺らぎから感知した、その嫌な予感の源は背後にいた。 


 蒼い炎が揺れる。

 ミサキの黒い瞳が空中に軌跡を描いた。

 とっさにオブジェクトを召喚し防ごうとする黒幕だったが、


「おっそい!」


 蒼炎纏う拳が背中に叩き込まれる。

 凄まじい速度と威力に倒れ込みそうになる身体を必死に起こし、反撃の手を放とうと杖を振るう。

 ミサキの目前、空中に召喚されたのはいくつもの遺跡の石柱。それらはひとりでに推進力を得てミサイルのごとく発射される。


 しかしそれがミサキを捉えることはない。

 ほとんど鼻先の距離から放たれた柱を、恐ろしく鋭いフットワークで掻い潜り、瞬く間に黒幕の懐へと飛び込む。

 

「せあっ!」


 渾身の拳が黒いボディスーツの胸部を穿つ。

 まだ終わらない。後ろに吹っ飛んだのを見て、追いかけるように距離を詰める。

 肉薄する脅威に、黒幕が驚愕した気配を感じた。


「――――――――!」


 ミサキのグローブ、《シリウスネビュラ》。燃える宇宙のごとき輝きを放つその装備は、戦闘時にその内から常に蒼炎を迸らせている。炎によるダメージの上昇、そして噴射による推進力の付与。

 ただひたすらに速さと強さを高めるための装備だ。


 繰り出されたのは、まさに炎のごとき乱打。

 反撃は許さない。召喚も、マップの切り替えも、何もかも。

 

「――――今ならまだ間に合う……!」 


 その拳はひとつひとつが訴えだった。

 頼むから止まってくれ、もう終わりにしよう。

 そんな願いをひたすらにぶつけ続ける。


 憎い相手だからって殴りたいわけじゃない。

 嫌いな相手を不幸にしたいわけじゃない。

 誰かを傷つけて喜べるような人間でもない。


 ただ、もうやめにしたかった。

  

「これ以上は本当に取り返しのつかないことになる! 致命的な過ちを、きっとあなたはこれから犯す! だから……」


 あまりの炎熱に、これまで冷気が占めていた山頂は一転陽炎のごとくその輪郭をおぼろげにしている。

 そこに響くのは耳を塞ぎたくなるほどの打撃音の集合。

 それはミサキの叫びそのものだった。


「もう、止まって……!」 


 昔、ミサキも過ちを犯した。

 どうしても止まれなくて、結局は仲間が暗い暗い闇の底から引っ張り上げてくれた。

 取り返しのつかないことには、その時点でもう陥っていた。

 一生消えない心の傷が残ってしまった。


 あんな想いはもう誰にもしてほしくない。

 まだ黒幕が誰かは確定していない。素顔を見るまではわからない。

 ただ、ミサキの中には確信めいた予想があった。

 

 ……それは、そうであってほしくない予想でもあった。


「どんな理由があっても駄目なんだ……絶対に後で死にたくなる! あなただって本当はわかってるはずでしょ!?」


 しかし、もしも”そう”だとしたら。

 きっとこの言葉が届くのではないかという一縷の望みを込めて、想いを拳に乗せる。

 もう全部終わらせるという決意そのものをぶつけようとして――――


 その拳が防がれた。

 

 目の前にあるのは、硬い鉄の扉。

 これは確かホームタウンの入り口のもの。物理的衝撃では一切傷つけることも開けることも適わない、文字通りの鉄壁だ。


「……………………黙レ」


 初めて聞く声だった。

 その音ひとつひとつが発せられるたびに声色が変わる。間違いなく合成音声だった――が、しかし。

 その低く響いた声音に込められた情念だけは嫌というほど伝わってきた。


「黙レ!」


 やっと。

 その言葉が聞けた。

 

 それは拒絶するような言葉だった。

 しかし、言葉を発したということそれ自体が、ミサキに心を動かされたという証左だった。

 突き放されたことは悲しかったが、それでもいい。


 一方的ではいつまでたっても届かないのだから。


「諦めない!」


 弾ける冷気を纏う脚を振るい、全霊の蹴りを扉に叩きつける。

 扉を開けることや壊すことはできなくても、そのオブジェクト自体を動かすことはできる。

 強い衝撃を受けた扉は押し飛ばされ、そのまま向こうの黒幕に直撃した。


 跳ね転がる扉と共に黒い溶岩の上を転がり立ち上がる黒幕へ向かって猛然と地面を蹴る。

 

「来ルなァッ!」


 その漆黒の全身から、先端に刃が付いた何条もの黒い鎖が飛び出した。

 それらは不規則な軌道でミサキを穿たんと迫る。


「…………わかるよ。そこまで来ちゃったら、わかってても止まれないよね」


 だがその鎖はミサキを捉えることはない。

 走り、屈み、躱し――全てを見切ってひた進む。


「だからわたしが止めるよ」


 顔面をまっすぐに狙ってきた鎖を左手でつかみ取る。

 そのまま力任せに引っ張ると、繋がっている黒幕の身体がふわりと浮き、一気に引き寄せられた。

 残った右手を固く握りしめると、これまでにない規模の蒼炎が溢れ出す。


「【シヴァ・イグナイト】」  

 

 腕から噴き出す蒼炎が力を与える。

 鎖に引き寄せられてくる黒幕を見据え、全力の拳を叩き込んだ。


「……………………!」 


 パキ、と何かが割れるような音。

 ノイズ混じりの断末魔とともに鎖はちぎれ、黒幕は宙を舞い、地面に落下した。

 

「はあっ、はあっ、はあっ」


 肩で息をしていると、空が剥がれ落ちていく。

 いや、この世界自体が剥がれているのだ。上書きされたマップデータが消え去り、元へ戻ろうとしている。


 雪原と溶岩は消え去り、再び0と1が滝のごとく流れ落ちる謎の部屋へと帰って来た。


「終わった、の……?」


 これで勝利だとするなら、とりあえず黒幕の素顔を確認しなければ。

 そう考え近づこうとした足が止まる。


 黒幕がゆっくりと立ち上がっている。


「まだ立つの……って」


 黒幕の黒い手袋。そこに握られていたのは見覚えのあるアンプルが、ざっと数えて10個ほど。

 透明なガラスの中は漆黒の粘液で満たされている。

 間違いなくあれはマリスの素だ。


「待って、そんなことしたら……!」


 その制止は届かない。

 いくつものアンプルを床に叩きつけると、ガラスが割れて中の粘液が飛び出した。

 うねるマリスの源は少しばかり揺れると、一斉に黒幕へと襲い掛かる。


「――――……」


 目の前の光景に声も上げられなかった。

 黒ずくめの全身が、瞬く間にさらなる黒に覆い尽くされ、その輪郭を歪めていく。

 

 どうしてこれを予想できなかった?

 マリスを作りばら撒いた張本人だ。追い詰められれば、その選択を取ることだってあり得たはずなのに。


「バカ……」


 歯噛みするミサキの目の前で変貌は遂げられた。

 3メートル以上にまで巨大化した黒幕は、驚くべきか、いまだ人の形を保っていた。

 黒いボディスーツの形状はおおむねそのままだ。

 だが身体のあちこちからぶら下がる黒い鎖がじゃらじゃらと耳障りな金属音を響かせ、コウモリの羽根のようなケープはコウモリを通り越して悪魔の翼と化していた。


「AAAAaaaaaaa――――――――!」


 理性を失った咆哮を上げる巨体を見上げ、ミサキは。


「……いいよ。じゃあわたしが最後まで付き合ってあげる」


 こうなってしまえば本当に倒すしかなくなる。


 だから徹底的に。

 完膚なきまでに叩きのめそうと、ミサキは決めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る