219.Happily Ever After
黒幕はここに来て最後の手段に手を染めた。
いくつものマリス・シードを取り出し、その身に取り込んだのだ。
そのアバターは変貌を遂げた。
全身のあちこちから黒い鎖を垂らし、背中のケープは悪魔の翼へと変化した。
体躯は二倍ほどに膨張し、うめき声を上げながらミサキを見下ろしている。
「…………」
同年代よりひと際小柄なミサキと比べると、遠近感が狂いそうなサイズ差だった。
そんな巨体を……見る影もなく変わり果ててしまった姿を、黒髪の少女は痛ましい目で見上げる。
ヒビの入った仮面の向こうはまだ見えない。
「
かすかに零した起動コードに呼応してマフラーが渦巻き、膨張し、ミサキの全身を包み込む。
装着されたのはピアノの鍵盤のような印象を与える兎耳フードジャケット、マリシャスコート『シャドウスフィア』。
「…………そっちがマリスの力を使うなら。わたしも同じ場所に立たせてもらうよ」
そうでなければ使うつもりはない。
こんなもの、使わなくていいなら使いたくない。
マリスの力は相手に現実以上の鮮烈な痛みを与えるのだから。
「GAAAaaaaaaaa!」
ノイズ混じりの絶叫と共に全身の鎖が伸び、ミサキを狙う。
さっきとは比べ物にならない精度と速度。軌道の予測は困難だ――仮にできたとしても間に合わない。
「――――っ!」
だから反射に任せる。
眉間を貫かんと伸びる鎖を首を振って回避し、そのまままっすぐに走り出す。
横に飛び、空中を蹴り、鎖そのものを足場にして、さらに距離を詰めていく。
紙一重だ。鎖が何度も身体のあちこちを掠めている。じくじくと苛む痛みが全身を這いまわる、だが止まらない。
「邪魔ヲ……すルな!」
黒幕が両手を掲げると、ミサキの頭上にオブジェクトが召喚される。
しかしそれは輪郭がぐずぐずで、まるでタールの塊のようだった。
オブジェクトはまるで意志を持ったスライムのようにミサキへと飛んでくる。
「避けきれ……ない……!」
近づくこと。鎖を切り抜けること。オブジェクトをかわすこと。
すべてを同時に達成するのは不可能だと判断した。
ならば。
(さっきのをもっかいやれば……)
腹部を狙ってきた鎖を身体を翻して回避し、そのまま掴み取る。
そのまま膂力で引き寄せる、先ほど叩き込んだ一撃の再現。
だが力を籠めようとした瞬間、その手に激痛が走る。
「突き刺さって……!?」
掴んだ鎖は意志を持っているかのように、その先端でミサキの腕を貫いている。
わずかな動揺。停止。その隙が致命的だった。
どぽん、と湿った音を立てて黒い塊が覆いかぶさる。それは重く粘つき、ミサキの機動力を完全に奪う。
「やめっ……ろ!」
足元から冷気が迸る。
ミサキのブーツ、《プリズム・ブリザード》の力によって粘液が凍てつき、さらにその内側――両腕から溢れ出した蒼炎が跡形も無く焼き尽くした。
だが、解放された次の瞬間。
「か、は」
胸を。腹を。腕を。脚を。
身体のあちこちを鎖が貫いた。
そのまま鎖はぐるぐると四肢に巻き付き、ミサキの動きを止める。
全身の神経が焼ききれそうな痛みに意識が飛びそうになる。
だが、まだ。
こんなことで倒れるわけには――と睨み付けようとしたミサキは、黒幕の変化に気づいた。
その内側から光が溢れ出している。
何か、とても嫌な予感がして、
「AAaaaaaaああああアアア!!」
絶叫と共に全てが吹き飛んだ。
白く飛ぶ視界。極大の爆発が、部屋全域を舐めつくした。
鎖も粘液も全てが消し飛ばされ、当然ミサキもまた。
「――――――――」
世界が終わる時は、きっとこんなふうになるのだと思えた。
(…………思えた?)
倒れるミサキは、まだ自分の意識が残っていることにかすかな驚きを覚える。それもおぼろげなものだったが。
倒れている、ということはわかる。
自分が死にかけている、ということもわかる。
それ以外を理解する力はもう残されていない。痛みすらどこかに消えた。
あの爆発は規格外だ。これまで受けたどの攻撃よりも、精神の奥底まで深いダメージを負った。
マリシャスコートが揺らいでいる。今にも消えそうに明滅を繰り返す。
マリスの力は精神を燃料にその出力を上げる。だからミサキの意識が消えそうな今、その存在自体が不確かな地点まで落とされているのだ。
ここまで来て駄目なのか。
あれほど必死に戦ってきて、いろんな人に助けられて、それでも止められないのか。
悔しい。悔しい。悔しい――だけど、立ち上がるための力が、もう根こそぎ失われた。
(ごめん)
せっかくここまでたどり着いたのに。
おそらくここで意識を失えば、ここ最近のマリス被害者のように意識不明となってしまうだろう。
いや、最悪の場合絶命までありうるかもしれない。それほどまでに精神が傷ついているのだと自覚できる。
この戦いだけではない。これまでマリスの力を使ってきて蓄積されてきたダメージは完全に癒えることなく残ったままだ。
(ごめん、みんな……わたし弱かった)
それでも、諦めるわけにはいかない。
最後まで足掻くために顔を上げる。
そこでミサキが見たのは予想だにしなかった光景だった。
「A A a ああ 」
耳が痛いほどのノイズにかき消されるうめき声。
黒幕の全身のあちこちがひび割れ、そこから黒い液体が漏れ出ている。
それはもしかしたら、ミサキよりも窮地に立たされている姿かもしれなかった。
「――――」
考えてみれば当然だ。
複数のマリスを一度に取り込み、そして規格外のエネルギーを放出した。
確かに常軌を逸した威力だが、そんなものをノーリスクで放てるわけがない。
マリスの力を安全に調整したマリシャスコートでさえ使いすぎれば重い反動がプレイヤーを蝕む。
であれば、その原液なら。
「なにを、してるんだよ」
もう動かないと思った足がわずかに動く。
棒のようだ。フラフラと頼りなく、一瞬でも気を抜けば倒れてしまう。
でも立てる。
上がらないと思っていた腕が上がる。
拳を握りしめ、構える。
まだ戦える。
「なにしてるんだ…………!」
心臓が燃えるようだった。
全身から力が溢れ、マリシャスコートが変貌する。
背中から噴き出す黒い影が翼のごとき姿を取る。
こんなことは終わらせないといけないと、これまで何度思ったかわからない。
マリスが被害者を増やすたび、変貌した被害者を倒すたび、その想いは強くなっていった。
だが、今これほど思うことはない。
絶対にここで止めなければならないと。
皮肉にもミサキに再び立ち上がる力を与えたのは、他ならぬ黒幕だった。
「豁「繧√i繧後※縺溘∪繧九°ッ!!」
もはや獣のごとき咆哮を上げる黒幕の全身が再び輝き始める。
それに呼応するようにミサキは強く、そして静かに呟く。
「来たれ、寂寞満たす漆黒よ」
全身から迸る漆黒が両手に宿る。
同時に黒幕が純白のエネルギーを解き放つ。
小さな少女へと、シンプルにして圧倒的な力の塊が迫る。
「【ダークマター】!」
両手から放たれた圧倒的な黒い奔流が放たれる。
白と黒がぶつかる。双方の力は拮抗し――いや、白の方がわずかに上回っている。
「く、ううううう……!」
押し返される。
力負けしているのは明らかだった。
崩れそうな両足に必死に力を込め、歯を食いしばる。
だが、ミサキの放った暗黒は飲み込まれ、そのままミサキ自身もまた。
「…………っ、あ…………」
ボロ雑巾になったミサキは再び床に倒される。
まだ息があることが不思議だった。
もはや視界は暗く、ほとんど何も見えない。
しかしそんな状態でも、どうしてか黒幕のことだけははっきりと目に映っていた。
二度の放出で、その身体はボロボロだった。
ひび割れは全身に及び、片腕と片足がそれぞれ崩れ残骸と化している。
したたり落ちる黒い液体が血だとしたら、とっくに失血死している量だった。
それでも黒幕は、
あの力は異常だ。明らかに身体とそぐわない。放つ本人のことを全く考慮していない。
拳銃から砲弾を放つがごとき不条理だ。そんなことをすれば
その証拠に、黒幕はもう声も上げられないようだった。
それでも何かに突き動かされるようにして身体だけが勝手に動いている。
(止めないと)
ここですべて、今度こそ終わらせる。
あの黒幕も含めて。
何としても止める。
「――――――――」
今にも爆発しそうに明滅するマリスと化した黒幕を見て思考する。
朦朧とする意識の中、勝つことだけを考える。
――――勝って。
(わかってるよ、フラン)
まだ力が足りない。
(だったら)
これ以上出力を上げるには。
マリシャスコートを一点に収束するしかない。
ミサキの纏うジャケットが渦を巻く。
右腕に。
いや――足りない。
右手に。
「まだ足りない――――!」
人差し指。
その指先に、マリスの力を集約する。
直後、部屋を染め上げるほどの爆発が巻き起こる。
純白のエネルギーが迫り来る。
「……これで最後」
残された力を振り絞って立ち上がり、白へ立ち向かうミサキはただ静かに指をさす。
一瞬だった。
指先から発射された漆黒の光線は、瞬きの間に純白を貫き、吹き散らし、そして。
その向こうの黒幕を射抜いた。
「……………………あ」
わずかな声。
それを最後に、黒幕を取り巻いていたマリスの力は霧散し、その身体が崩れ落ちる。
「勝っ、た……?」
黒幕はぴくりとも動かない。
そして、この部屋を包み込んでいた嫌な空気も消えてなくなっていた。
何の音もない静寂が身を包んでいた。
今度こそ終わったのだ。不思議とそう確信できた。
だがまだやるべきことがある。
マリシャスコートを解除したミサキは黒幕の傍らにふらふらとしゃがみ込み、その仮面に手を掛ける。
わずかな手の震え。
黒幕の正体がすぐそこにある。
確かめないわけにはいかない。すべてを終わらせるために。
ひび割れた仮面は、思ったより簡単に剥がすことができた。
「…………なんで」
本当はわかっていた。
誰が黒幕かなんて、ずっと前から検討がついていた。
マリスなどという不正プログラムを作れる者。
そしてこのVRMMOという特異な電脳世界にそれを持ち込める者。
どこからでもこの世界に入って来れて、どこからでも出ていくことができる。
さらにこの部屋。
この世界すべてを監視しているかのような画面の数々。
まるでこのゲームにおける管制室だ。
「ねえ、なんで」
答えはない。
問いかけは宙を漂い、誰も聞くことなく消えていく。
そうでないかという疑いと、そうであってほしくないという祈り。
真実を確かめたかった。
そんなはずはないと信じていたかったから。
だから戦っていたのに。
仮面の内側に隠されていた、その顔は。
このゲームの運営・開発の最高責任者。
『…………早く終わらせたいと、そう願ってやまないよ』
白瀬のものだった。
「どうして……!」
少女の慟哭が響きわたる中決着は訪れた。
全てを計画し実行に移した”黒幕”はひとりのプレイヤーに打倒され、その正体は白日のもとに晒された。
多くのプレイヤーを脅かし、『アストラル・アリーナ』の、ひいては運営会社の信用を地に落とした事件。
のちに『マリス・パレード』と呼ばれるその事件は、こうしてめでたく終結したのだった。
――――多くの謎を残したまま。
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