第3話「いざ教室へ」-2

「なあ、姫野さんには分かるのか?」

俺は目の前を歩く光浦和希に聞いてみた。

「分かるって何が?」

「トイレだよ」

「トイレ?」

「姫野さんは何でここが男子トイレだって分かったんだ?」

「そりゃだって…」

「姫野さんは全盲に近い弱視なんだろ?それならトイレの表示だって読めないんじゃ…」

「バカやろう!姫ちゃんは幼稚部からこの学校に居るんだぞ。今年で10年目だぜ。だから姫ちゃんはこの学校のどこに何があるのかもうばっちり覚えているんだよ。な、姫ちゃん」

「…はい」

急に光浦和希から話を振られてびっくりしたのか、それとも自分のことを褒められて照れているのか、姫野さんは少し恥ずかしそうに答えた。

「えー、姫野さんってこの学校にそんなに長く居るのか?」

俺は本当に驚いてしまった。

 今年で10年目…。

 そりゃあそれだけ長く盲学校に居たら、学校の中のことぐらい全て分かっていてとうぜんだろう。

「それにねえ原田さん、明日の教室案内の時にもまた説明しますが、この学校の廊下には、ずーっと手すりが張ってあって、各教室やトイレの前の手すりには、それぞれ点字が付いているんですよ。麗菜ちゃんは少し点字が読めるから、部屋の名前が分かるんです」

と、大山先生が教えてくれた。

(姫野さんも点字が読めるのかー)

俺はそのことが何だか嬉しくなってきた。

 というのも、それまで通っていた地元の小学校には、自分以外に点字が読める人が誰も居なかったからだ。

 俺の目が完全に見えなくなると、絵本の読み聞かせボランティアの活動をしていた従妹の叔母さん(父さんの姉)を通じて、点訳ボランティアサークルの代表をしている伊藤さんを紹介してくれた。

 そして毎週水曜日の放課後と、土曜日の夕方の週2回、伊藤さんに点字の読み書きを教えてもらうことになったのだ。

 さらに伊藤さんの勧めで、『ライトハウス』という、全国にある視覚障碍者の大きな施設の用具店から、『点字板』という、点字を書く時に使う道具と、『点字紙』という、b5サイズの分厚くて堅い点字を書く紙をたくさん買わされた。

 これが全盲になった俺の筆記用具になっていった。

 さらには伊藤さんが代表を務める点訳サークルの利用者さんからの協力もあって、点字の教科書を手に入れることができた。

 それらの物のおかげで、目が見えなくなってからも、他のクラスのみんなと何とか一緒に授業を受けられるようになった。

 だが自分だけがみんなとは違う分厚い点字紙や、点字の教科書、さらにはみんなが使っているノートとは違う点字板を使うことに、俺は疎外感を覚えていた。

 視力があった頃とは、明らかに何かが変わってしまった。

 まるで自分だけが、みんなとは違う人間になってしまっているような気分だった。

 全盲になったことよりも、俺はその疎外感の方がずっと辛かったかもしれない。

 でも盲学校には、俺以外にも点字が読める人が居る。

「学習室」

手すりの点字を読みながらだろうか。姫野さんがはきはきした声で言った。

 そんな姫野さんを、俺は少し頼もしく思った。

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