第2章 双翼・連理-5

 散歩から戻ってきた。司令部では“修練”の時間が毎日の大半を占めている。

 出撃が無ければ一日に13時間。出撃があれば8時間。それだけを使って技量を維持し、伸ばし、鍛えてゆく。毎日毎日執拗に積み上げていく様は、醒者がネフィリムに神化してしまわないかという不安の裏返しにも思える。ただ、それ以外に何かをしたいという気持ちになったことはあまり無い。

 ただ、この時だけは姉さんとは離れてしまう。修練の内容が違うのだから仕方ないし、常に顔を見ていないと不安になるということはないが、どこか寂しい。その寂しさを抱いたまま照準を覗いて目標に視点を合わせる。伸ばした指は既に引き金にかかっており、少し動かすだけで弾丸はマトへと吸い込まれるだろう。

 ただし、常に風が吹き続ける中で胡坐をかきながら腕の支えも無しに、300メートル先にある半径1センチメートルの目標を狙って、ではあるが。

 揺れる身体を意識して、揺れにリズムを作り余計な力を抜いて、次の瞬間の身体の位置を感じる。銃身を抑える腕は可能な限り疲れない体勢を保ち続け、それでも一射ごとに下がっていく。

 ヘッドセットが汗で僅かに動く。髪の毛が風に流される。尻が痺れてきて身体を支えづらくなっていく。まだ2時間しか経っていないのに。

 気持ち悪い、とヘッドセットを外した。風が髪とともに汗をさらっていく。視線の先にあるのは、ただの白い壁。せいぜい30メートル離れているほどだ。

 フロアを1つ、それだけでは300メートルには足りない。建物1つでもそれほどの厚みは無く、また場所も無い。だから最低限の物理的環境を整えて、他はバーチャルに任せているのだ。実際、この部屋全てがシステムとセンサーの塊だ。一挙手一投足、この部屋でのいかなる行動もデータとして蓄積されているし、ヘッドセットからは脳波も取得しているという。

『ヘッドセットを装着してください』

 緊張気味の声が部屋に響く。贅沢なことに人の眼が見張りについてる。特に罰則も無いし拘束力は無いけど。

 多分あの位置。銃を構える。レーザーポインターは無い。でも、十年以上にも及ぶ反復練習はどこに目標があるかを雄弁に告げている。呼吸を整えて、身体が姿勢を認識した瞬間、指が引き金を引いていた。ここまで来ると自分の意思で撃っているのかも分からなくなる。

 再びヘッドセットを装着する。命中を示すカウントが1つ増えている。中心からの誤差は9ミリメートル。ぎりぎり外れるところだった。少し悔しい。

 足を組み替える。血流が復活して思考がクリアになる。軽く息を吸って身体を固定。固まった身体の揺れとポインターが示す照準と視線が直線になるところで、引き金を引いた。マトに命中。今度は中心から4ミリメートル。まだまだ精度が甘い。

 息を吐いてもう一度構えなおす。ゆっくりと指に沈んでいく引き金の感触を頼りに仮想のマトを狙う。本物のネフィリムはもっと存在感がある。威圧感がある。畏怖にも似た感情を呼び起こさせる力はこの訓練には無く、失敗が許されるということもあって気楽に済ましている。済ましてしまえるのだ。

 それなのに──日によって差が出るとはいえこれだけのズレがある。一時間に一発くらいは中心を穿つ一撃を放ちたいのだけれど。

 今朝の出撃で疲れているのかもしれない。早めに終わらせることはできないし手を抜く気も無いけど、もう少し気を緩めていいかもしれない。

 それでも──修練をきちんと収めていなければ神化してしまうかもしれない。そんな恐怖が頭をよぎる。人のままで居たいと思う気持ち。姉さんと一緒に居たい気持ち。それが自分の原動力なのは間違いない。

 そんなことを考えていると射撃もマトを外してしまう。中心どころか当たりもしないなんて。

 こうしていると、なんだかんだで楽しんでいるし好きなんだなと思う。例えそれが醒者としての教育の成果だったとしても。

 思考を止めて頭の片隅に姉さんの姿を置き、引き金を引く。それだけを行う機械のように繰り返す。

 方法を変える。5分に1射。1時間で12射。それより早くもなく遅くもなく。カウントスタート。

 定期的な継続という縛りは、引いてはいけない緊張感と時間間隔の緊迫感を与えてくる。体勢が整っていなくても、外れることが分かっていても、決めた時間が来れば必ず撃たなければいけない。ネフィリムを撃つならば確実を狙うがこれは修練だ。訓練とは別。

 最初の数回は身体が感覚を覚えるために使う。息を凝らして時間を数え、狙いが定まるリズムを己に刻む。揺れる肉体を脳が支配して全能になる心地。時間が来て1秒前に指が反応。引き金を絞る。ズレた。ハズれ。

 5分とサイクルが長いと微調整にも時間がかかる。ひたすら待つ時間は、一撃のための準備にしては長すぎる。ネフィリムを相手にする時はチャージに同じくらいの時間がかかるけど、光を撃つ瞬間は数十秒もあれば体勢を整え狙ってしまえる。意味の無い時間、だけど気を抜けばそれ以降が狂ってしまう魔の時間。

 心を落ち着かせ、なおかつ集中を切らさない方法。そうだ、頭の隅に置いておいた姉さんの顔を前に持って来よう。身体に力を入れて固定してから少しずつ楽にして、姉さんの顔を思い浮かべる。カウントが頭から消えないようにヘッドセットが見せる視界の中心に置いておこう。

 脳内の姉さんを通してマトが見える。そのすぐ下にカウント。銃口はマトの中心を通る軌道を一定のリズムでふらふらと動き、カウントが0になるタイミングを見計らうように少しずつ位置を変えている。

 時間が来た。引き金を引く。マトには当たるが中心には1センチメートル届かない。惜しい。

 嗚呼、早く姉さんに会いたい!

 

   ***

 

 数部屋向こうに兄貴がいる。だが、修練が終わらなければ会えない。

 醒者の持つ技能は様々だ。天性の才能もあれば後から仕込まれたものもあるし、才があっても性格との相性もある。ただし、それが正しいと幼少期は信じていて、色々なことを知ってからも嫌々か諦めか続けている奴らが一定数いるのは確かだ。

 そもそもどうやって才能を仕込めばネフィリムにならずに人のままでいられるなんて頓狂な法則を見つけたのか。最初の醒者をどうやって見つけたのか。時代が時代なら虐待だぞおめーら。でも、武芸の一門というのはあるにはあるし子供の頃から色々と仕込まれるのは古今東西よく聞く話だ。だから、ネフィリムがそうであるように醒者が一定数生まれてもおかしくない。

 ただし、それは昔の話。現在の醒者のほとんどは、ある程度の成長予測と興味の方向から、仕込まれる技能が決められる。それが大抵当たっているから腹が立つって話だ。

 何が言いたいかって言うと、こんな技能を選んだ子供の頃の自分を殴ってやりたい。

 ぎぃこぎぃこ、ちゃぷちゃぷ、と音が反響する。木組みの枠を支える手は水でふやけて荒れそうになり、枠を揺らす腕は長時間の酷使でもバランスを感じるのをやめない。脳はもう休みたいと言っているのに身体が許してくれない。枠を振る角度、水を落とす勢い、枠に残った繊維の重量を測るバランス感覚。どれを取っても職人の域だ。

 それは才能なのだろう。一般の家庭に産まれていればこんなことをする体験も無く、埋もれていたに違いない。だけど──

「紙漉きなんてどうかしてるっつうの!」

 東洋の伝統的な製紙方法らしい。それ以上は知りたくもないが強制的に教え込まれたし色々な流派を背負わされた。

 ネフィリムの侵攻で途切れた文化はいくつもある。それを技能として背負い後世に伝えるのは現在を生きる人々の使命だというお題目も理解できる。だけど、それを醒者に負わせてしまえば一石二鳥だなんて考えているなら殴ってやりたい。

 ただ、こうして作っているものは立派な芸品として販売され、それなりの値段がつくらしい。司令部につぎ込まれる資金から比べれば水の一滴に過ぎないだろうけど、リステロさんのように趣味でやる分にはいいのかもしれない。

 頭の中では下らないことを考えながらも腕は動いている。同じ動作の連続ではなく、水が落ちるに従って腕の振りも変わる。

 木枠──スケタの下にはコウゾ──草──の繊維が満ちた水溜。フネと呼ばれるその中から繊維をすくってスケタを揺らし梳いていく。縦、横、繊維が均等にスケタの中に行き渡るようにして、紙になった時の厚みがバラバラにならないようにする。

 水がある程度落ちたら紙置き場──紙床に重ねて置く。空気が入らないように密着させるし後でまとめて真空圧縮しても乾いた時にはきちんと剥がれるから不思議だ。

 1時間に梳ける枚数は、大きさにもよるけど30枚弱。修練の8時間のうち3時間を使うから今日は150枚程度になる予定だ。それとは別に一昨日から乾燥させておいた紙床の紙を乾燥させる作業がある。

 時間が来て、部屋を移り乾燥室へ。植物特有の粘り気が消えた正方形の繊維の塊は薄く剝がれて紙となっている。まだ湿り気が残っているそれらを乾燥板の上に貼りつけていく。指の先に傷をつけてはいけないから慎重になるし、細かい作業だから手袋を着けることもできないし修練だから機械を使うこともできない。あくまでも伝統にこだわるようで迷惑なことだ。

 そうして250枚近い紙を剥がしては貼っていると、集中で頭の中は無になって余計なことを考える暇など残ってない。剥がす角度、爪の入れ方、乾燥板の位置と移動、梳いている時ならば少しの余裕はあったものの、今は兄貴の顔を思い浮かべるくらいしかない。

 頭の片隅に兄貴の顔を置いて、紙の束の側面に指を滑らせ、自然に剥がれるところで紙を持ち上げる。持ち上げた1枚は反対側が薄っすらと見えるほどで、下手な動きをすれば空気の流れだけで皺がついてしまう。乾燥板に張り付ける時が一番緊張する。

 それでも、3センチメートルにも満たない束が段々と嵩を減らしていくのが見えると達成感のようなものが感じられる。何だかんだで楽しんでいるのだ。芸事なんてそんなものなのかもしれない。

 無心になってやっていると時間の流れが速い。一昨日の紙をすべて張り終えて、もう6時間近くも経っている。

 今度は乾燥室に行き、水分が抜けきった紙を乾燥板から外していく。乾燥したからといって割れそうなことはなく、紙としてしっかりとした弾力を持っている。これでこそ和紙だ。

 完成した和紙を歪みや汚れが無いか確認しながら重ねていく。部屋のセンサーがそういうものを全て検出してダブルチェックというか完全スキャンというか、自分よりもきちんと仕分けてくれる。修練のために効率を無駄にしているのは、なんとなく本末転倒感がある。それでも、醒者が神化しないのであれば、無駄ではないのだろう。アタシだって、明日からやめていいと言われても紙を梳くのを止められない。ネフィリムや神化や神子については、分かっていることなんてほとんど無いのだ。せいぜい、ネフィリムがどこに現れるか分かるくらいで。

 半ば夢見心地でいた作業が終わった。時間を少し超えてしまったけど、作業は完遂できた。気分がいい。髪を切ってもらったのがいい気分転換になったのかもしれない。

「待たせたな、兄貴」

 部屋を出たところでペブルが出迎えてくれた。コップの水を渡してくる。ありがたい。

「姉さんこそ、身体に負担が無い程度にしなよ。今日は出撃があったんだから」

「いつも前に出ているアタシに言うなっての。修練で死ぬことは無いんだから、その分気楽なもんさ」

「そうだね。でも、こっちはこっちでキツいこともあるし」

「それはそうだけどさ。ま、生きてるだけめっけもんだァね」

 ネフィリムに向き合った時の感覚に比べれば修練も疲れもどうってことない。ただ、望んだワケでもない長時間の作業は精神的にしんどい。

「そうだね。ところで夕食はどうする?」

「お腹も空いたし多めに食べたいなァ」

 午後からぶっ続けで紙と向き合っていたのだ。兄貴もそうだろう。互いに消耗しているのは変わらない。

「じゃ、食堂でいいね」

「うん」

 手軽に量とカロリーを求めるには最適な案だ。今日は出撃の分まで食べてやろう。

 

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